礼拝と教会は、中心を同じにする円の位置関係にあると思う。いかに自らの礼拝が、自らの教会の中心のものとして献げられているかが、問われはじめてきたように思うこのごとである。キリスト教主義の学校に勤め、礼拝と学校の生活が今や「礼拝と教会」に中心点を定めて生活できている状況にある今こそ、機会を得て自分にとっての「礼拝」について考えてみることにしてみよう。

この十年間の姪浜教会員としての生活では、二度にわたる無牧師の期間を経験したことを語らないわけにはいかないだろう。自分にとってははじめての無牧師とはいっても、いずれも松見俊牧師をいただいての期間だったので、通例では無牧師期間を経験したとは言えないのかもしれませんが。

松見俊協力牧師はいずのれの期にも、西南学院大学の神学部の教授傍ら、月2〜3度の主日礼拝の説教、月1度の祈祷会を担当されながら、教会の牧会にも携わられました。礼拝説教の担当にも随分と気を配っていただきました。「そのように恵まれた状況を無牧師の時とは言わない」という声が聞こえてきそうですが、私たち姪浜教会にとっては、「無牧師の時」に他ならなかったのです。

説教者が月のうちで代わるということで、聖書への切り口も居ながらなにして種々示していただける恩恵を喜んでいましたが、そういう形態を肯定しきっていたわけれはなく、その現状の中に学んでいたように思います。いずれの場合にも、専任牧師を求めて招聘委員会が専任構成されて、一年間の無牧師期間を経て招聘が満たされました。

この十年の歩みのうちで、姪浜教会から主日礼拝の時(灯)が失われたことがありません。60年の中でも同じだったと思います。あの福岡県西方沖地震の最中でも主日礼拝の時刻前に一時隣難しましたが、収まった後、何事もなかったように、主日礼拝を献げた記憶がありありと浮かんできます。

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