母教会である姪浜教会に帰ってきたこの年。私は様々な葛藤の中で自分をもしくは他人を裁く気持ちで一杯でした。そんな折に、この7ステップの学びに招かれ、御言葉を正しく、そして細部に至るまで細かく読むことを教えられたのは神様からの贈りものに違いありませんでした。学びは少数で行われ、私は牧師先生と教会員の女子青年との3人で進めていただきました。

最初の勉強会の箇所は、創世記1章。よく知っている馴染みのある箇所のはずでしたが、衝撃を与えられました。そこには、神様が7日間かけて創造されたこの順番こそがとても大切で、神様の創られた世界がいかに秩序立てられているか、ということ。また、1つ1つの主のご計画が確かであることが描かれていました。そしてそんな神様がすべてをご覧になられ、「良し」として下さったのです。自分を裁き、「良し」と出来ずにいた私にとって、この言葉が温かく心に染みていくのを感じました。

学びが進められていく中で私は更に救いに預かります。それは、ヨハネによる福音書8章に描かれた姦淫の罪を犯した女の問題です。ここでイエスは、「あなたを罪に定めない」と宣言されます。自分の犯した罪の重さに耐えられなくなり、押しつぶされそうになっていた女に、一方的な許しの宣言をするのです。群衆が皆去っていったあと、彼女自身が彼女の最後の裁き手となって残っていたその場に寄り添い、一方的に恵みを施されたのです。それこそがイエスの十字架の贖いであったのに、私はいかに浅はかに自分や他人を世の価値観で見ていたかに気付かされました。神が「良し」として下さっているはずのものを軽んじていたことを知りました。

 また、牧師先生の言葉でとても印象に残っている言葉があります。それは、『風を捉えることが出来ないように、私たちには神の計画はわかりません。けれども風の音を聴くことはできる。』というものでした。風の音をしっかりと捉えるためにも、御言葉に聴き従う信仰生活を歩むことが出来るようにと祈ります。

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