「とっておきの良いしらせ」

マタイ2章1-12節

私が大学生の頃、教会で親しくしていた友人がこんなふうに悩んでいました。「俺って変わり者だから、どこに行っても居場所がないと感じてしまう。教会に行っても、こんな自分が教会に来ていいんだろうかと考えてしまうことがある」。

その友人が、ある時、嬉しそうに、一人の牧師から聞いたお話をしてくれました。その牧師は、友人にこのように言ってくれたそうです。「教会には、ステンドグラスってあるよね。あのステンドグラスは色々なガラスが合わさってできている。でも、ガラスの大きさは一緒じゃないよね。形もバラバラ。そんなガラスが合わさってできているのが、ステンドグラスなんだよ。教会の交わりも一緒。形も色も全然違うような私たち一人一人が神様によって集められ、こうして集っている。そして、そのように形も色も違う者同士が、違うままで、神様によって結びあわされている。私たちは、クリスチャンになっても、それぞれ、色も奇抜で形も整っていないガラスの破片みたいかも知れない。でも、そんな互いに結び合わされていくのが教会なんだよ。そんな私たちが共に生かされる中で、神の光が注がれる。その時、ステンドグラスのように、この世のものとは思えない美しい輝きを放つことができるんだ。」友人はその話にとても励まされたと話してくれました。

クリスマスを考える中で、ぜひ覚えていたいことの一つは、このことです。クリスマスは私たち一人一人を招いてくださっています。この神様の招きの前に、私たちは「自分なんかが…」と悩むことはないのです。私たちがどれだけいびつで、変わった色のガラスであっていたとしても、神様はそんな私たちを招いてくださっている…。このことを覚えていたいと思うのです。

クリスマスの記述を読むと、本当に様々にバラエティに富んだ人たちが、クリスマスの出来事に招かれていることを知らされます。そして、その一人一人が、本来、そのような場所に相応しいとは思えないような人たちでした。たとえば、イエス様の母となったマリアについてもそうだと思います。未だ、年端のいかない少女と見まがうような女性が、クリスマスの中心人物として登場するのです。マリアの夫ヨセフも、田舎町ナザレの一労働者に過ぎない人でした。

イエス様がお生まれになった最初の夜、救い主誕生の知らせを聞くことになったのは、羊飼いたちでした。当時の社会で、羊飼いというのは、社会的地位も低く、おそらくもっとも貧しい暮らしをしていたであろうと言われていたのが、羊飼いたちです。当時の社会の中では、脇に追いやられてしまっていたであろう、そんな彼らが神様の救いの出来事に一番に招かれたのです。彼らはそれぞれ本人たちにしてみれば、「自分なんか招かれているんだろうか」と思ってしまうような一人一人だったのではないでしょうか。

しかし、神様はそんな彼らを、クリスマスの出来事に真っ先に招いてくださったのです。本日の箇所も同様です。本日の箇所に登場するのは、東の方から来た博士たちです。いわば彼らはユダヤ人でもない、外国人たちでした。本来なら、神様の救いの出来事と全く関わりがないはずの彼らがクリスマスの出来事を目撃することになったのです。

(鈴木牧人)

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