「神殿の建物を指さして」

マタイ24章1-2節

 本日の箇所は、イエス様が神殿の崩壊を預言された箇所です。この箇所を読みながら、心に留まったのが、「イエス様は弟子たちに神殿の建物を指さして言われた」という言葉です。この言葉を読みながら思ったのは、「この時、弟子たちは神殿の建物に注目していたのだろうな」ということです。実際、マルコによる福音書には、弟子の一人が神殿を見て、「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」(マルコ13:1)とイエス様に語っている様子が記されています。そのように、この時、弟子たちは、すっかり神殿の建物の立派さに魅了されていました。そんな中、イエス様は弟子たちに神殿の建物を指さして、「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」と言われたのです。
イエス様と弟子たちのやり取りの中から、考えさせられることは何でしょうか。私の中で一番に思うのは、「神殿で重要なのは、目に見える建物の立派さではない」ということです。神の宮としての神殿で重要なのは、目に見える建物の立派さではなく、その神殿に集う一人一人なのです。そこに集う一人一人がどんな思いでそこに集っているのか…。そこで何がなされていくのか…。そのことが何より大事なんだ…。見た目の建物の立派さに魅了されている弟子たちに、イエス様はそのことを教えようとされていたのではないかと思うのです。
私は教会ということを考える時、いつも思い出す話があります。これは私の父から聞いた話なのですが、父は以前、会社の単身赴任で、数年間、アフリカのナイジェリアというところに滞在していました。その父がこんな話をしてくれたことがあります。ある時、父が朝方に浜辺を散歩していたそうです。すると、そこに地元の人たちがやって来ました。「何をしているんだろう」と思って見ていると、その人たちは木の棒でもって、砂浜に大きな四角の枠を描き始めたのです。やがて、そこにぞくぞくと人々が集まってきました。人々はその四角の枠に入ったそうです。次に綺麗な衣装を身にまとった人たちがやって来ました。様子を見ていると、どうやら、この人たちは聖歌隊のようでした。そして、最後に牧師先生らしき人がやって来て、礼拝が始まったのです。その人たちにとって、その日、浜辺に書いた四角い線の場所が教会になっていたのです。私は教会ということを考える時、いつもその話を思い出します。
ただ浜辺に線を描いただけの場所に人が集まっているだけなら、「そんなの教会なの?」と思ってしまうのだと思います。しかし、その時は、そこに集う人たちにとっても、父のように周りから見ている者たちにとって、そこが教会でした。何で、そのようにそこが教会とされたのでしょうか。それは、そこに集っている一人一人が、その場所で心からの思いで、神様を礼拝していたからなのだと思います。心からの思いで、イエス様を見上げ、御言葉に聞き、賛美している…。一人一人がそのような場所を造り上げている…。そこが浜辺であろうと、何であろうと、そこは教会とされたのです。教会というのは、そういうふうにして、そこに集う私たちが作り上げていくのです。私たちの信仰が作り上げていくのです。

(鈴木牧人)

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