本日のローズンゲンの御言葉です。

 あなたの地は再び不法を耳にすることなく/破壊と崩壊は領土のうちから絶える。あなたの城壁は「救い」と/城門は「栄誉」と呼ばれる。イザヤ60:18

 そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。」黙示録21:3

 ずい分にある牧師が、メッセージの中で、こんなことをおっしゃっていました。「私たちの信仰の歩みの中で、最後まで残るものって何でしょうか

私は『讃美』だと思うんです。

私たちの日々の歩みで、『讃美』と共に『祈り』が大切です。祈らずには日々を歩めない私たちがいます。だけれど、終わりの時、私たちが神様に遭いまみえる時には、もはや祈りさえも必要なくなるんじゃないでしょうか。私たちは、神様を目の前にしながら、私たちがそれまで献げてきた祈りの涙も全て拭われ、ひたすらに溢れる讃美を献げているんだと思うんです。」

 その先生は、そのようにおっしゃっていました。先生の言葉が、印象深く残っています。本日の箇所には、次のように記されています。

 「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。』」

 これは、やがて来る世の終わりの情景を語っている御言葉です。その時には、私たちのただ中に神の幕屋があり、神が人と共に住み、人は神の民となるというのです。この御言葉を読みながら、先ほどの先生の言葉を思い出しました。神と人とが共に住む中で、人々の口からは讃美の言葉が溢れている…。そんな情景を思い浮かべたのです。

 そんな麗しい情景を思い描きつつ、私たちの現実を思う時、それとは遠い現実がしばしばあるように思います。時に、讃美の思いさえ、かき消されてしまうような、困難だったり、悩みだったり、痛みを経験することもあるのではないでしょうか。

 しかし、そのような中にあっても、讃美の思いを忘れないでいたいと思うのです。

 宗教は改革者のマルティン・ルターは「わたしは祈れない時、讃美の歌を歌う」と語ったそうです。「祈れない時なんかに、讃美を歌うなんてできるだろうか」と思ってしまうかも知れません。しかし、祈れないほどに心打ちひしがれ、悩みの中にある時こそ、私たちは神様への讃美を献げていきたいと思うのです。

 そのようにして献げられる「讃美」こそ、私たちにとって、かけがえのないものとなり、本当に残るものとなっていくのではないかと思うのです。そんなことを思いながら、今、私たちができる讃美を献げていきたいと思いました。

(鈴木牧人)

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