「苦難の日々の先に」
マタイ24章29-31節
「その苦難の日々の後、たちまち/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、/星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。」(24:29)
本日の御言葉を読みながら、心に留まったのは、「その苦難の日々の後」という言葉でした。イエス様は、本日の箇所で、世の終わりに向かいつつある私たちの歩みについて、そこには苦難があるんだということをお話になったのです。
聖書には、私たちにとって、最も大いなるもの、いつまでも残るものが三つあると語っています。それは、「信仰」と「希望」と「愛」です。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(Ⅰコリント13:13)。この御言葉は、大変有名な御言葉です。ところで、パウロが、別の手紙の中でも、「信仰」と「希望」と「愛」について、語っているのをご存じでしょうか。「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです」(Ⅰテサロニケ1:3)。この御言葉で注目したいのは、「信仰」「愛」「希望」に付随している言葉です。ここでパウロは信仰について、「信仰によって働き」と語りました。また、愛については、「愛のために労苦し」と語り、希望について「希望を持って忍耐している」と語っているのです。パウロにとって、「信仰」と「希望」と「愛」というのは、抽象的な概念ではありませんでした。この世界にあって、具体的に信仰に生きるという時に、そこには「働き」というものが伴うものなんだと語ったのです。そして、希望というものに生きようとする時、そこには「忍耐」を通らされるし、愛に生きようとする時、私たちが多くの労苦を通らされていくのだと語ったのです。実際、そういう経験をさせられてきた方はたくさんおられるのではないでしょうか。そして、それというのは、その人が、本当の意味で「信仰」「希望」「愛」というものに向き合ってこられたことの証しなのではないかと思うのです。
昨年大ヒットした宇多田ヒカルさんの曲に「花束を君に」というものがあります。その曲に、こんな歌詞があります。「毎日の人知れず苦労や淋しみも無く/ただ楽しいことばかりだったら/愛なんて知らずに済んだのにな」。一見すると、エッと思うような歌詞ですが、愛というものについて大切なことを語っているのではないでしょうか。日々の歩みの中で、人知れず苦労をし、淋しさを経験する…。そういうこともしないで、毎日が楽しいことばかりで、苦労も何もないんだったら、きっと自分は愛なんか知らなくて済んだのだろうなと思う…。愛とは、そういう一面があるのです。本当の愛を知るという時、私たちは人知れず苦労を通らされるし、時に愛なんて知らなければ良かったと思えてしまう…。そのような経験を通るのです。それは、まさに愛の労苦を通らされる経験と言えるのではないでしょうか。しかし、そのような思いを通らされてもなお、私たちにとってかけがえのないものであり、大いなるものと言える…。それが愛なのです。(鈴木牧人)