「いちじくの木の教え」
マタイ24章32-35節
本日の箇所で、イエス様は、弟子たちに対して「いちじくの木から教えを学びなさい」(24:32)と言われました。「木から学ぶ」とは、どういうことでしょう。私は、これまでの牧師としての歩みを振り返ってみる時、時々に「木から教えられたこと」と言いますか、「木に大切なことを気づかせてもらったこと」があるように思います。
忘れられないことがあります。私が郡山の教会に赴任したばかりの頃のことです。その時、教会はまだ伝道所でした。これからどうしたらよいのか分からない状況の中、牧師としての働きをスタートさせました。そんなある日、ホームセンターの観葉植物売り場を覗いたところ、観葉植物の中に「青年の木」というものがありました。私は、その名前に惹かれて、思わず、購入しました。そして、牧師室で育てることにしたのです。私は正直言って、植物を育てるのが下手です。すぐに水をあげすぎたり、放っておきすぎたりして、枯らせたり、腐らせたりしてしまうのです。ですから、この観葉植物も枯らせてしまわないか心配でした。でも、この木だけは枯らせるわけにはいかない…。そんな思いで、青年の木を育てることにしました。正直言って、教会に青年が集うということと、「青年の木」を育てるということは、何の関係もありません。ですが、私の中ではこの木を育てるうちに、教会に青年たちが集ってくれるのではないかと勝手に思って育てていたのです。それから10年、私は郡山で牧師をしましたが、その10年間、無事に「青年の木」を育てることができました。そして、10年間を振り返ってみる時、「青年の木」の成長と重なるように、教会に若い人たちが集うようになっていったことを思います。そして、その人たちが教会を支えてくれるようになっていきました。
先ほど話したように、青年の木を育てたから、教会に青年が集うようになったわけではないのだと思います。それとこれとは関係ないことです。しかし、私は牧師室の机の上の「青年の木」を見る度に、私が郡山に赴任したばかりの頃の思いを思い起こしていました。青年が一人しかいなくて、「どうしよう」と思っていたこと、「とにかく青年の木でも育てよう」と思うほどに八方ふさがりだった時のことを思い起こすのです。そして、その時のことを思い起こす度に、今、こうして教会に青年たちが集められ、教会の働きを担ってくれている…。そのことが、神様がなさった御業によるものであること、神様が私たちを成長させてくださってきたことを身に凍みて痛感するのです。
そんな経験を振り返りながら、私は個人的に思うことがあります。教会というのは、「木のようなところ」ではないでしょうか。「木のようなところ」というのは、教会というのは、「今だけ」、「その時だけ」を見ていると分からない神様の御業というものがあるということです。郡山の教会に十年をかけて段々と人が集うようになったように、長い時間をかけて、少しずつ起こされていく神様の御業というのがあるのです。そんな中、木の成長を見守るように神様の御業を見上げていく…。そのような眼差しというのが必要なのではないかと思うのです。(鈴木牧人)