本日のローズンゲンの御言葉です。
「ヤコブよ、なぜ言うのか/イスラエルよ、なぜ断言するのか/わたしの道は主に隠されている、と/わたしの裁きは神に忘れられた、と。」イザヤ40:27
「だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。」ヘブライ10:35
以前、親しい一人の姉妹が、私にこんなことを言っていました。
「私は神様のことを信じている。神様が今も生きて働いておられるということも信じているし、周りの人たちの証しを聞いたり、色々な様子を見ていると、本当にそうだと思う。だけど、その神様が私を見てくれていて、私に関わってくださっているのかと聞けれると、分からなくなってしまう。 正直、そのことが信じられなくなってしまうことがある。」
その姉妹は、私に呟くように、そんなことを言っていました。私の中で、今も忘れられない言葉の一つです。その姉妹は、自分の率直な思いを話してくれたのだと思います。
そして、正直、私たちもこの姉妹のような思いになってしまうことがあるかも知れないと思います。
神様のことは信じているのだけれど、その神様が自分自身を見てくれていて、自分に関わってくれているのかということを思う時、そのことが分からなくなってしまう…。そういう思いになってしまうことがあるかも知れません。そして、おそらく、本日の聖書の箇所で語られているイスラエルの人々というのは、そのような思いだったのではないかと思います。
「ヤコブよ、なぜ言うのか/イスラエルよ、なぜ断言するのか/わたしの道は主に隠されている、と/わたしの裁きは神に忘れられた、と。」
この箇所には、「わたしの道は主に隠されている」「わたしの裁きは神に忘れられた」と言い合っているイスラエルの人々の様子が記されています。 これらの言葉に現れているように、この時、イスラエルの人々は「神様は自分たちのことなんか見てくれていない」「自分たちのことは忘れられてしまっている」と考えていたのでした。 私たちがどんなに神様のことを知識として知っていて、心に信じていたとしても、その神様が「私」に関わってくださる方でないとしたなら、私たちにとって信仰は本当に空しいものになってしまうのではないかと思います。私たちが神様からの御言葉に励まされることも、その神様をよりどころとすることもないのだと思います。大切なことは、その神様が「私」に目を注ぎ、「私」の今の歩みに関わってくださり、共に歩んでいてくださる方なのだということを信じることです。何よりそのことを伝えるために来てくださったのが、イエス・キリストでした。
イエス・キリストがお生まれになった時、「その名はインマヌエルと呼ばれる」と言われました。
インマヌエルとは、「神様が私たちと共にいてくださる」という意味です。
この言葉にあるように、イエス様は「神様が私たちと共にいてくださる」ということを表してくださるために、私たちのところに来てくださったのです。私たちの歩みには、色々なことがあります。
時に、神様のことが分からなくなったり、神様、私のことなんか、忘れてしまっているんじゃないだろうかと思うこともあるかも知れません。しかし、イエス様は私たちに「そうじゃないよ」と呼びかけてくださっています。そのイエス様を見上げながら、歩んでいきたいと思うのです。(鈴木牧人)