「目を覚ましていなさい」

マタイ24章36-44節

「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。」(24:42)

御言葉を読みながら、「目を覚ましていなさい」という言葉が心に留まりました。「目を覚ましていなさい」とはどういうことでしょうか。どんなことがあっても、眠ってはいけない、目を閉じてはいないといけないということでしょうか。ずいぶん前になりますが、テレビのバラエティで、大勢の芸人さんたちが集まって、「誰が最後まで起きていられるのか」ということを競っていました。眠りに誘う色々な試練の中で、目を閉じたら負けなのです。芸人さんたちが必死になって、目を開けていました。でも、睡魔には敵いません。ふらふらしながらちょっとした瞬間に一瞬ウトウトとすると、すぐに「アウト!」と判定されてしまっていました。テレビを見ていて「私だったらとても耐えられない」と思いました。本日の箇所を読みながら、その番組のことを思い浮かべました。イエス様がおっしゃっていたのは、そういうことなのでしょうか。聖書には度々「目を覚ましていなさい」というメッセージが語られています。そのいくつかの箇所を開いてみたいと思います。

「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」(マタイ26:41)「だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。」(使徒20:31)「目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。」(Ⅰコリント16:13)「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。」「従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。」(Ⅰテサロニケ5:6)

これらの言葉を読む時、「目を覚ます」ということについて、色々なことに気づかされるのではないでしょうか。これらの御言葉では「目を覚ます」ということが、「祈る」ことと繋がっています。また「御言葉を思い起こす」ということにも繋がっています。その他、「信仰に基づいてしっかりと立つ」ということだったり、「感謝する」こと、そして、「身を慎む」ということにも繋がっているのです。これらの御言葉を読みながら、思うことがあります。それは、私たちがここで挙げられているようなことを忘れてしまう時、私たちはいつの間にか、霊的な部分において、眠ってしまうというか、大切なことから目を閉ざしてしまうということがあるのではないかということです。

「目を覚ます」ということは、いつも緊張しながら、警戒しながら、どんなことがあっても、眠ってはいけないということではないのだと思います。そんなふうに力んで信仰生活を送ることではないのです。そうではなく、何より、祈りに繋がること、御言葉に繋がることです。私たち自身の生き方を神様に定めて、その信仰にしっかりと立つことです。神様への感謝を忘れないことです。そして、自分の思うままに生きようするのでなく、日々、神様に聞きながら、神様の御心を選び取ろうとしていくことなのです。(鈴木牧人)

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