「神さまが定めた競走を走り抜く」

 ヘブライ人への手紙12章1~12節

 私は姪浜教会でバプテスマを受け、それ以来13年間、この教会につながっています。私が教会へと導かれたのは、大学4年生のときで、就職活動をしていたときでした。まさに、「競走」がきっかけでした。その頃、私はひどく落ち込み、人生の目的がわからなくなりました。私は自分自身のために競走をしていました。自分を、人生の中心においていました。だから、苦しかったのです。しかし、神さまを中心におくとどうでしょうか。そこには、喜びあります。神さまがすべてを導いてくださるからです。クリスチャンになるということは、自分を中心とする生き方から、神さまを中心とする生き方へと方向転換させられることなのです。

1節に、「自分に定められている」競走、とあります。この手紙の作者は、この世に生きるクリスチャンへ、励ましの意味で、「競走」という言葉を用いたのです。英語で書かれた聖書には、race となっています。ここでは、必ずゴールがある、終わりの日がやってくる、という希望を語るための、例えであると思います。作者はこの競走を走り抜くために大切なことをこの箇所で語っています。

1つめは、私たちはたくさんの証人の群れに囲まれていることです。それは、すでに天に召された信仰の先輩たちのことです。その人たちが、私たちのそばにいてくれるのです。そして、先に召されたこの教会の先輩たちもそうです。早川姉妹、森姉妹、古賀姉妹など、最期まで信仰を守って天国へ凱旋した方たちがともにいてくれるのです。このことは大きな励ましではないでしょうか。

2つめには、イエスさまを見つめることの大切さが書かれています。イエスさまはどこにいるのでしょうか。天使はイエスさまが「インマヌエル」と呼ばれるといいました。これは、「神は我々とともにおられる」という意味です。また、イエスさまは復活されたあと、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる。」とおっしゃいました。イエスさまは、私たちといつも一緒におられるのです。例えるなら、イエスさまはゴールで手招きをしながら私たちを待っている方ではなく、私たちのそばにいて、いっしょに伴走者として走ってくださっているのです。

3つ目は、神さまは私たちを鍛え、私たちの益のため、また平安を与えるため、父として競走をお与えになるということです。私たちが信仰をもって決断をするとき、神さまは決してそのまま放っておかれることはないのです。

最後に、この競争は個人的な競走・自分だけの競走ではないことを、覚えておきたいと思います。聖書に「あなたがた」とあることに注目したいと思います。この手紙の作者は、個人ではなく、教会に語っているのです。誰でも競走に疲れ、信仰が弱くなるときがあります。そんな私たちですが、自分ひとりではなく、教会につながり、兄弟姉妹とともに競走を走ることがゆるされているのです。(大内 絵美)

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