本日のローズンゲンの御言葉です。

「神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て/神の御顔を仰ぐことができるのか。」詩編42:3

「“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。」 ローマ8:23-24

本日の御言葉には、次のように記されています。

「神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て/神の御顔を仰ぐことができるのか。」

この御言葉を読みながら「命の神に、わたしの魂は渇く」という言葉が心に留まりました。

私が東京の教会に通っていた頃のことです。沖縄から来たT先生という方が、教会の副牧師として勤めるようになりました。そのT牧師は、私にたくさんのことを教えてくださったのですが、中でも忘れられない一つの思い出があります。

ある時、教会に行くと、その先生が暗い表情でうなだれていました。

「先生、どうしたんですか?」と私が聞くと、先生は呟くように「近ごろ、渇いていないんだよね」と言ったのです。私は先生が何を言っているのか、さっぱり分かりませんでした。

渇くって何だろう?喉が渇くことでもないだろうし、そもそも、何で渇いていないということで、こんなに暗い顔をしているのか、それが問題なのか…。全く分かりませんでした。

でも何故か、その言葉が心に残ったのです。そして、それから「渇くって何だろう」ということを私の中で考えるようになりました。そして、色々な経験を通して、自分なりに実感してきたことは、「渇く」とは、「神様を慕い求める魂の渇望」のことなのだと思いました。

日常生活の慌しさの中で、あるいはある程度の満たされた状況の中で、いつの間にか、そういう「神様を慕い求める魂の渇望」が自分の中に無くなってしまっている…。

神様に渇いていなくなってしまっている…。そんな自分を感じながら、T先生は「これでいいのだろうか?」と憂いていたのではないかと思うのです。そして、そんなT先生の姿から、私自身と神様とのことについて、考えさせられました。自分はT先生のように神様に渇いているだろうか…。

自分自身、日常生活の慌しさの中で、ある程度の満たされた状況の中で、いつの間にか、「神様を慕い求める魂の渇望」が無くなっていないだろうか…。

それまで、私はそもそもそんなこと考えることもなく、歩んでいました。

ですから、先生が「近ごろ、渇いていないんだよね」ということに対しても、さっぱり意味が分からなかったのです。本日の御言葉を読みながら、その先生のことを思い出しました。

そして、改めて、渇くということについて、考えさせられました。

本日の御言葉を語った詩人は、心のそこからの魂の渇望で、主を求めていました。

そんな中、主を「命の神」と呼ぶのです。この詩人は知っていたのだと思います。

主こそ、自分の魂を本当の意味で満たすことができる「命の神」であること…。

私たちも、主に渇き、主を求める時、私たちの魂を本当の意味で満たすことができる「命の神」との出会いを経験することができるのだと思います。                              (鈴木牧人)

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