「忠実で賢い僕と悪い僕」

マタイ24章45-51節

 本日の箇所でイエス様は、「忠実で賢い僕と悪い僕」のたとえについて話をされました。このたとえを読んで思うことがあります。それは、このたとえに登場する「悪い僕」は、はたして、満たされていたのだろうかということです。この「悪い僕」は、主人の言うことを無視し、好き勝手なことをしています。しかし、突然、仲間を殴り始めたというのです(24:48)。なぜ好きなことをしているはずなのに、こんなことをしているのでしょうか。一見不思議に思える記述ですが、「実際、こういうことってあるんじゃないかな」と思ったりします。自分たちの好きなことをしているのですが、満たされないですし、喜びがないのです。そんな私たちの歩みは、何をしても虚しいばかりで、結果、そういう虚しさから、たとえの「悪い僕」のように諍いやトラブルが絶えない…。そういうことってあるのではないでしょうか。

「悪い僕」の問題はどこにあったのでしょうか。彼らが食べたり、飲んだりしていたことが問題だったのでしょうか。そのこと自体は問題の根本ではなかったのだと思います。というのは、本日のたとえを読みますと、忠実で賢い僕についても、使用人たちが一同に介して、食事をしている様子が語られているからです。食べたり、飲んだりすること自体が悪いのではないのです。むしろ、僕の問題は別のところにあったのではないでしょうか。一番の問題として考えられるのは、この「悪い僕」が、主人から言い渡されたはずの、自分が果たすべき役割を忘れてしまっているということだったのではないかと思います。「悪い僕」は、主人から託された「家をきちんと管理し、使用人一人一人に心を配り、使用人たちに決められた時間に食事を提供しなければならない役割」を放棄しているのです。そして、さして目的もないまま、「今だけ良ければいい」「楽しければいい」という思いで飲み食いをしているのです。ですから、心も歩みも定まらないですし、自分たちの好きなことをしているはずなのに、満たされない…。そこに「悪い僕」の問題があるのではないでしょうか。

この「悪い僕」の姿を見ながら思います。今の時代、私たちはつい、「悪い僕」のような生き方に向かってしまうことがあるのではないでしょうか。神様から託された自分の役割とか、務めとかいうことが抜け落ちたまま、自分の好きなことを好きなようにする生き方に向かってしまう…。そういう生き方のほうが普通ですし、場合によっては「そうした方がいいよ」と思うことが多いのではないかと思うのです。でも、一方で、何か、心に満たされないものを抱えていたり、喜びを見いだせないままだったり、自分が何のために生きているのかさえ分からなくなってしまうことがあるかも知れないと思います。

そんな私たちに聖書は語っているのだと思います。私たちの主は、私たちをかけがえのない一人として愛しているということ…。そして、主は、足りないところばかりの私たちをご存じの上であえて用い、「あなたが必要だ」と呼びかけてくださっているということです。このことは恵みであり、私たちがその主に出会い、その主に生かされていく時、私たちは心も歩みも定まっていくのだと思います。そこに本当の喜びや満たしがあるのだと思うのです。

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