「油が必要!」
マタイによる福音書25:1-13
本日の「十人のおとめ」のたとえに登場する愚かなおとめたちの「愚かさ」、賢いおとめたちの「賢さ」とは何でしょう。私は、これまで、このたとえに記されている愚かなおとめたちの「愚かさ」とは、彼女たちの「いい加減さ」や「怠けていたところ」にあったんじゃないかと思っていました。しかし、今回改めて、本日の箇所を読み返しながら、必ずしもそうではないのかも知れないと思いました。愚かなおとめたちは何故、花婿を迎えられなかったのでしょう。色々なことが言えるかも知れませんが、一つ思うことがあります。それは愚かなおとめたちにとって、彼女たちが思ってもみなかったことが次々に起こったのではないかということです。まず「自分たちが眠ってしまうこと」です。彼女たちは、まさか自分が花婿を待っている間に眠ってしまうなんて思ってなかったんじゃないかと思います。もう一つは「自分のともし火が消えそうになったこと」です。このことも、まさかそんな事態になるなんて、考えてなかったのではないでしょうか。そんなふうに、彼女たちは彼女たちなりに花婿を迎えようと備えていたのではないかと思うのですが、彼女たちの思いもよらない事態が立て続けに起こり、いざという時に花婿を迎えるともし火が消え、結局、花婿を迎えることができなかったのではないかと思うのです。
何でこんなことを言うのかと言いますと、イエス様の弟子たちの姿を思うからです。イエス様がこのたとえをお話になった後、イエス様は十字架へと向かっていきます。そんな中、イエス様の弟子たちは、たとえに記されている愚かなおとめたちと同じようなことをするのです。イエス様が十字架にかけられる直前、ゲッセマネの園で祈った時に、弟子たちは眠ってしまっていました。また、イエス様がローマの憲兵たちに捕らえられる時、弟子たちは皆イエス様を見捨てて逃げ出してしまうのです。その様子というのは、まさに、肝心な時に居眠りをし、肝心な時にともし火を掲げることができない愚かなおとめたちの姿、そのままなのではないかと思います。弟子たちの問題はどこにあったのでしょうか。彼らはいい加減で、怠け者だったのでしょうか。そうではないのだと思います。イエス様の弟子たちは、彼らなりにイエス様に従おうとしていました。しかし、弟子たちは、自分たちの弱さが分からないでいたのです。自分たちの弱さやもろさを理解せず、自分たちの力でもって何とかしようとしたのです。それゆえ、彼らは肝心な時にともし火をともすことができなかったのです。
そんなふうに、十字架における弟子たちの姿と重ね合わせながら、本日の愚かなおとめたちの「愚かさ」について色々と考えさせられました。そしてさらに、それでは、本日の箇所から読み取ることができる賢いおとめたちの「賢さ」は何だろうと思いました。彼女たちは、自分たちのともし火の危うさが分かっていました。そんな中、油の助けを必要としていたのです。ここに彼女たちの「賢さ」がありました。私たちの信仰のともし火は、自分の思いや力で守ろうとしてもそうできない時があるのだと思います。油の助け、油の執り成しと支えによって、燃やされ、ともし火を輝かせることができるのだと思うのです。