本日のローズンゲンの御言葉です。

あなたは誇り高い海を支配し/波が高く起これば、それを静められます。詩編89:10

弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、おぼれそうです」と言った。イエスが起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった。ルカ8:24

私はこれまで何度か、船に乗ったことがあります。小学生の頃、毎年、教会のプログラムで、伊豆諸島の大島というところの障がい者施設にワークキャンプに参加するために出かけたのですが、その時

熱海から大島まで船で移動しました。このプログラムは、春休みに行なっていたので、海は度々荒れていました。行き来の船が大きく揺れていたことを思い出します。実際の施設での働きも力仕事ばかりで大変だったのですが、それ以上に船での移動がしんどくて、本当に嫌だったことを思い出します。

沖縄に行った時も、時々、船に乗りました。 石垣島に行った時、離島の西表島に出かけたのですが、その時も船が大きく揺れました。福岡に来ても幾度か船に乗りました。

昨年の秋にも、仲間の牧師に誘われて大島というところに海釣りに出かけたのですが、その時ちょうど台風が福岡に上陸する直前でした。片道30分ほどの船旅だったのですが、行きも、帰りも、海が激しく荒れて、船は掴まっていないと立てないほど大きく揺れていました。どうやら私たちが乗った船の数便後には台風のため、欠航になってしまったのですが、本当に生きた心地がしませんでした。

これまで、そんな経験をしながら、つくづく船は苦手だなと思います。何度乗っても、荒れている海を船で渡るというのは、慣れません。頭の中で「大丈夫」と分かっていても、船が揺れる度に心は揺さぶられ生きた心地がしないのです。

本日の箇所には、次のように記されています。 「弟子たちは近寄ってイエスを起こし、『先生、先生、おぼれそうです』と言った。イエスが起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった。」

本日の箇所には、ガリラヤ湖で嵐に遭った弟子たちの様子が記されています。弟子たちは、恐怖のあまり、イエス様に「おぼれそうです」と叫びました。この箇所を読む度に、自分が荒れた海で揺れていた時のことを思い出します。そして、私がこの場所にいたら、きっと弟子たちと同じように、心が激しく揺さぶられてしまうだろうなと思うのです。そして、それというのは、船に乗っている時ばかりではないかも知れないと思います。「イエス様のことを信じているし、そのイエス様に全てのことを委ねているから、大丈夫!」そう思っているつもりでも、嵐の中に置かれるように、色々な問題のただ中に置かれる時に、心揺れていたり、不安になっている…。そんな私たちがいるのではないかと思うのです。

本日の弟子たちの姿を思いながら、そんなことを思いました。でも、本日の箇所を読みながら、改めて思ったのは、弟子たちが自分たちの不安な思いをそのままイエス様に訴えたということです。

弟子たちは「おぼれそうです。助けてください」と言って、自分たちの不安な思いをそのまま、イエス様に訴えました。そんな弟子たちの姿に、大切なことを教えられるように思いました。

私たちがイエス様に従っていても、不安になることもあれば、心揺さぶられることもあるかも知れない…。だけど、私たちはそんな思いをそのまま、イエス様に打ち明けることがゆるされているんだなということを思いました。そして、本日の箇所で、イエス様は弟子たちの訴えに応えてくださいました。

イエス様は、私たちの祈り、訴えにも、そのように応えてくださるのです。その時、その方法は、私たちには分かりませんが、私たちの思いを越えて、主の御業が起こされていく…。 そんな経験をさせられることがあるのではないでしょうか。毎日の色々な問題に一喜一憂している私たちがいます。

そんな中、本日の箇所に記されている弟子たちのように、不安な思いもそのままにイエス様に打ち明けながら、主に従っていきたいと思いました。(鈴木牧人)

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