「あなたは、わたし」

マタイによる福音書25:31-46

本日の箇所には、世の終わりの時、人の子であるイエス・キリストが来て、全ての人々を裁く様子が語られています。その時、イエス様は人々に対し「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」(25:35-36)と言われるのです。この御言葉を読みながら、「わたしが飢えていたとき」という言葉が心に迫ってきました。これはどういうことでしょう。私はここで言われている「わたしが飢えていたとき」という御言葉について抱いているイメージがありました。ギリシア神話を読むと、しばしば、神様が人間や動物に姿を変えて、人前に現れるという話があります。この聖書の箇所についても、そんなイメージで受け止めていました。イエス様が、飢えている人だったり、のどが渇いている人だったり、旅をしている人に変身していて、人々から飲み物をもらった後に、「実はあれは仮の姿で、本当はわたしだったんだ」と言っているイメージで受け取っていたのです。しかし、今回、これまでとは違うイメージでこの御言葉が迫ってきました。どういうイメージかと言いますと、飢えている人がいる。のどの渇きに苦しんでいる人がいる。長旅をして疲れ果て、倒れそうになってしまう人がいる。イエス様が、そのような人たちをご覧になり、その人たちを指して、その人たちのことを自分自身のように受け止めながら、「あれはわたしなんだ」とおっしゃっている。そういうイメージです。

数年前のことになりますが、テレビでこんなコマーシャルを目にしました。ある俳優さんが飢餓に苦しむ子どもたちの写真を見つめながら、「この子たちはかつての私たちだ」と語っているコマーシャルです。現在、世界中に食べ物が無くて困っている子どもたちがいます。私たち日本ではそんなことないかも知れません。「けれど、戦時中や戦後は、私たち日本人もそうだったんだ。食べ物なくて、お腹を空かせて、泣いていたんだ。あの子たちは、他でもない、かつての私たち自身だ」と語っていたのです。本日の箇所を読みながら、その時のコマーシャルを思い出しました。

私たちがしんどい時、苦しい時、そのしんどさや、苦しみを、自分のことのように考えてくれている。そのように見つめてくれている。そのことはどんなに慰めや励ましとなるのでしょう。本日の箇所でイエス様が「わたしが飢えていたとき」と語られた言葉を聞きながら、そんなメッセージが心に迫ってきました。実際、イエス様という方は、そんなふうに私たちを見つめてくださっているのだと思います。私たちが大変な時、苦しい時、悩みの中にある時、イエス様は、そんな私たちを見つめ、私たちの苦しみや悩みを、まるでご自分のことのように受け止めてくださっているのです。また、イエス様は、もし私たちの周りの誰かが、私たちに対して手を差し伸べて助けてくれるなら、まるで御自分が助けられたかのように、その誰かに対して、「わたしを助けてくれてありがとう」と喜んでくださるのです。私たちの信仰は、このイエス様の眼差しに支えられ、生かされていく歩みなのだと思います。(鈴木牧人)

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