「祭りの間はやめておこう」
マタイ26章1-5節
本日の箇所には、イエス様を十字架につけようと目論んでいた祭司長たちと民の長老たちが、着々とその準備をしている様子が記されています。ここで祭司長たちと民の長老たちは「民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう」(26:5)と話しあいました。祭りとは過ぎ越し祭のことです。過ぎ越し祭は、イスラエルの人々にとって、最も大切な祭りで、世界中からエルサレムに人々が集まってきていました。「過ぎ越し祭の間は、たくさんの人が来ているし、みんな見ている。そんな中、イエスを捕らえてしまえば、騒ぎになってしまう。祭りの間は血なまぐさいことは控えよう。」祭司長たちと民の長老たちはそのように話しあったのでした。
この祭司長たちと民の長老たちの姿から考えさせられたことがあります。それは、「彼らにとって、祭りとは何だったのだろう」ということです。ここで言われている祭りとは、どんちゃん騒ぎのお祭りではありません。彼らにとって、礼拝でした。彼らにとって、礼拝とは何だったのでしょうか。礼拝とは、本来、彼らにとって、神様に出会うための場所だったのではないでしょうか。神様に出会い、神様の前に静まり、自分自身、心砕かれ、御言葉を受けて、そこから遣わされていく…。そのような場所だったのではないでしょうか。
もし祭司長たちと民の長老たちにとって、この祭りが、本当の意味での礼拝の場所であり、彼らがここで心からの礼拝をしていたなら、どうだったろうかと思います。彼らはその後、なおもイエス様を十字架につけようとしたでしょうか。もしかしたら、彼らの思いは変えられたかも知れません。それまでイエス様への妬みや憎しみで心が一杯だったとしても、彼らが心から神様を礼拝し、神様の御前に自分の心を置いて、静まり、自分自身に砕かれたとするなら、イエス様を十字架につけようとすることを思い留まったかも知れないと思うのです。しかし、そうはなりませんでした。彼らはイエス・キリストを十字架につけることを辞めませんでした。そんな祭司長たちと民の長老たちを見る時、この人たちにとって、祭りは「単なる通過儀礼」だったんだなと思います。大切な時間だったかも知れませんが、そこで神様に出会って、自分たちが砕かれたり、変えられたりすることはありませんでした。彼らにとって、通り過ぎれば、これまでと変わらないのです。
そんな祭司長たちや民の長老たちの姿を思いながら、このことが私にも問われているように思いました。私たちにとって、礼拝とは何でしょうか。私たちは、日常の様々な出来事の中で、翻弄されたり、心が迷ったり、心が感情的な思いに捕らえられてしまうことがあります。そんな私たちが礼拝の場所に招かれているのです。私たちが様々な思いを抱えつつも、心から神様を礼拝し、神様の前に自分を置き、静まり、自分自身に砕かれながら、神様の御言葉に聞く時、私たちはその御言葉に癒されたり、砕かれたり、軌道修正させられていくということがあるのだと思います。そんな中、改めて、ここから一歩を始めていくということがあるのではないでしょうか。礼拝とは本来、そのような場所なのだと思うのです。(鈴木牧人)