本日のローズンゲンの御言葉です。
「主はわたしを光に導かれ/わたしは主の恵みの御業を見る。」ミカ7:9
「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」ルカ24:30-31
本日の箇所には、次のように記されています。
「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」
この箇所は、有名な「エマオの途上」の御言葉です。イエス様は、十字架にかけられ、復活された後、度々、弟子たちに現れました。そんな中、エマオに向かおうとしていた弟子たちにも現れました。しかし、この弟子たちは、最初、イエス様に気づきませんでした。ところが、食事の席で、イエス様がパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった時、目の前にいる方が『イエス様だ』と分かったのです。この聖書の箇所を読む時、思い出すことがあります。以前、福島に住んでいた女性がこんなことを話してくれました。
「2011年の原発事故の時、私は本当に動揺し、混乱していました。どうすればいいのか、分からずに、結局、子どもと一緒に名古屋に一時避難をしました。そして、知り合いの牧師にお世話になりました。その牧師は、私たちを温かく迎えて、私たちに食事を準備してくれました。正直、その時まで、私は心騒いで仕方なく、自分自身をも見失っていました。『イエス様、どこにおられるの?』という思いもありました。でも、その食事をしている時に、心に迫ってきたのが、エマオの途上の弟子たちの姿でした。エマオの途上の弟子たちは、最初、復活されたイエス様のことが分からなかったが、一緒に食事をした時、『ここにイエス様がおられる』ということに気づきました。その時の聖書の箇所が心に迫ってきて、『あのエマオの途上でそうであったように、今、ここにもイエス様は共にいてくださる』ということを思いました。その時、それまで騒いでいた心に平安が与えられたんです。」
お話を聞きながら「ここにイエス様がおられる」という言葉が心に残りました。私たちは、時に、自分を見失ったり、イエス様のことも分からなくなってしまうことがあります。しかし、私たちが本当に辛い時、しんどい時、一番近くにいてくださるのが、「復活のキリスト」なのだと思います。そして、私たちにそのような状況の中にあって、「ここにイエス様がおられる」ということを知らされる経験は、本当に特別な経験なのだと思うのです。本日の御言葉を読みながら、改めて、そのような主の取り扱いを思いました。(鈴木牧人)