本日のローズンゲンの御言葉です。

「見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。」詩編121:4
「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」1ペトロ5:7

本日の箇所には、次のように記されています。

「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」

本日の箇所を読みながら、「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい」という言葉が心に留まりました。ここで「お任せしなさい」と訳されている言葉をギリシア語で調べてみたところ、「エピリプトー」という言葉が使われていました。この言葉は「エピ(上に)」という言葉と「リプトー(投げる)」という言葉が合わさってできた合成語です。私たちが抱えている心配や思い煩いを、全部、神様に投げなさいと言われているのです。 ちなみにこの言葉は、聖書の中で本日の箇所以外に一箇所だけ使われていました。

「そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。」(ルカ19:35

この「自分の服をかけ」というところで、エピリプトーという言葉が使われていました。エピリプトーという言葉を調べながら考えさせられたことは、この「お任せしなさい」と言われている言葉は、元来、極めて具体的で、実際の動作を表す言葉なんだろうなということでした。「走る」という言葉は、極めて具体的な動作を表す言葉なのだと思います。このエピリプトーという言葉も、同様に極めて具体的な動作として、「神様に全て任せなさい」と語られているのではないでしょうか。そのイメージとして、私たちが握りしめてしまっている心配事や煩いごとを神様に投げてしまうような、そんな姿が語られているのではないかと思うのです。

ちなみに「投げる」という言葉は、福島のほうでは「捨てる」を意味する言葉でもあります。それほどに「神様にいっさいを渡してしまいなさい」ということが言われているように思いました。

一方、思わされたことは、実際の自分の歩みでは、中々そんなふうにできていないんじゃないだろうかということでした。神様に任せるとか、委ねるということを口で言いながら、肝心な部分ではいつまでも自分で抱えていたり、握りしめてしまっている自分がいるように思うのです。

そんな私に対して、「その思い煩いをちゃんと神様に投げなさい」と言われているように思いました。

何というのでしょう。そんなふうに自分で何かを握りしめ、中途半端に神様に委ねようとしている時、私はどれだけ神様が働いてくださっていても、神様が働いておられるのか、自分が働いたのか、よく分からないままでいたりするように思います。そんな中、具体的な行動として、「神様に委ねる」という決断をしていく時、私たちは、実際、神様が生きて働き、私たちのことを心にかけてくださっていることを具体的な形で知らされていくのではないかと思うのです。

そして、そんなふうに、神様が私たちの歩みに具体的に介入し、取り扱ってくださっていること、私たちのことを心にかけていてくださっていること、私たちの歩みに生きて働いてくださっていることを知ることは、私たちにとって、かけがえのない経験なっていくのだと思います。神様は、私たち一人一人と、そんなふうに関わり、歩んでいきたいと願っておられるのではないかと思いました。                                                             (鈴木牧人)

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