「整えられた食卓」
マタイ26章17-25節
本日の箇所は有名な主の晩餐の記述です。本日の箇所から注目したい御言葉があります。
「夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。」(26:20)
ここには、主の晩餐で、イエス様が、十二人の弟子たちと一緒に食事の席に着かれたということが書かれています。この御言葉について考えていきたいと思います。
よく、テレビなんかを見ていると、有名人へのインタビューで「最後の晩餐で何が食べたいですか」と聞いたりすることがあるのではないでしょうか。質問を聞きながら、「自分だったら、何が食べたいだろう」と考えることもあります。しかし、よくよく考えて、ふと思うのです。もしそのような「最後の晩餐」があるとして、「何を食べるか」ということが一番大事なのでしょうか。それよりも大事なことがあるのではないかと思うのです。それは、せっかくの食卓を「誰と一緒に食べるか」ということです。そんなことを考える時、本日の箇所で、イエス様が、十二人の弟子たちと一緒に食事の席に着かれたという言葉が心に留まります。ルカ22:15にはこんな記述があります。
「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた」(ルカ22:15)。
イエス様は最後の晩餐の食事をするにあたって、「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた」と言われました。イエス様にとって、最後の食事をするにあたって、何より願ったのは、弟子たちと一緒に食事をすることでした。まさに、最後の晩餐を迎えるにあたって、イエス様が望まれたことは、この食卓を「誰と一緒に食べるか」ということでした。そのように思う時、本日の箇所で、イエス様が、十二人の弟子たちと一緒に食事の席に着かれたという言葉にイエス様の弟子たちに対する溢れる愛を思います。「十字架につけられる前の最後の食事の席で、何より、あなたたちと一緒に食事をしたいんだ」「この時、あなたたちと共に過ごしたいんだ」イエス様はそのように願われたのです。それほどにイエス様は弟子たちを思い、愛されていたのです。
私たちは、毎月、第一日曜日に主の晩餐を執り行っています。それは、本日の箇所にある最後の晩餐を覚え、その晩餐に私たち一人一人が招かれていることを心に刻む時です。そんな中、本日の御言葉を読みながら、心に刻みたいことがあります。それは、私たちが主の晩餐に共に与るとは、どういうことかということです。色々なことが言えるかも知れません。しかし、本日の箇所を読みながら、ぜひ覚えていたいことがあります。それは、「この食卓であなたと一緒に食事をしたいんだ」というイエス様からのメッセージです。「この大切な食卓にあなたを招きたいんだ」「あなたと一緒に食事をしたいんだ」イエス様は弟子たちをそのように招いたように、私たちをも主の晩餐の食卓に招いてくださっているのです。そして、その愛の招きに応えて、私たち一人一人が弟子たちの一人として加えられていくこと…。それが、私たちが主の晩餐に共に与るということなのだと思うのです。