「幸いだとおっしゃる神」
マタイによる福音書5章9節
『平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。』
私は神学部で2年間、様々な学びをしてきました。この2年間で一番考えさせられたこと、それは「平和」ということについてであったと思います。ある人は聖書の平和、ヘブライ語で「シャローム」のイメージを「きれいな丸」だと言います。それは欠けのない完全な丸、ゆがんでいない丸です。このイメージからは、例えば私が平和であっても、あなたが平和でない場合、聖書のシャロームではありません。私が豊かであっても、世界のどこかで貧しい人がいるのなら、たとえ戦争をしていなくても、それはシャロームではありません。暴力がないこと、そしてさらにその差が縮められてゆく動き、それがシャロームです。丸の中で一か所だけが高くなっている、あるいは一か所だけがくぼんで低くなっている、それを解消してゆくのがシャロームです。
山上の説教でイエス様の下に集まったのも、まさに社会の中で低くされている人々でした。何重にも税金を取られ、病や差別に苦しんでいました。そのような人々がイエス様の下に集まっていたのです。それは丸のゆがんだ部分に押し込められた人でした。私たちの社会はどうでしょうか。私たちの社会もきれいな丸とは言えません。大きくゆがみ、そこに押し込められている人々がいます。私たちはそれを何とか解消しようと試みます。しかしきれいな丸の社会、シャロームを実現すること、それは本当に難しいことです。全員が満たされる世界を作る事は不可能に思えます。社会の中で苦しんでいる人に出会うとき、私たちは目をそむけたくなります。これ以上助けるのは無理だと諦めてしまいます。それが私たち人間の限界かもしれません。
イエス様が「シャロームを実現のする人は幸いだ」と言うとき、本当にイエス様は社会で低くされて、苦しんでいる人に向きあって語って下さっています。そしてシャロームを実現する人、そのために働く人に幸いだと祝福して下さり、それに向き合おうとする人々も励ましてくださっているのです。それを聞いて、諦めかけていた人々ももう一度シャロームの実現にむけて立ち上がったのです。神様は私たちがシャロームの実現のために働く時、必ず私たちに、それに向き合う力を与えて下さいます、幸いだと促してくださいます。私たちの教会もそうでしょう。私たちの教会がシャロームの実現に向き合い、そのために働くとき、神様は必ず私たちの教会に、力を与え、幸いだと促して下さいます。だからこそ私たちはそれに向き合い続けることができるのではないでしょうか?今週私たちがそれぞれ派遣される場所でもきっと、低くされている人がいるでしょう。神様から力をいただき、その人と向き合ってゆきたい、そのように願います。
平野健治神学生