「差し出された愛」

マタイ26章26-30節

本日の箇所は、有名な主の晩餐の記述です。イエス様は、主の晩餐の食卓で、どんな思いでおられたのでしょうか。イエス様はこれまで、様々な人に出会ってきました。そこには傷ついたり、疲れていたり、迷っている、たくさんの人たちがいたのだと思います。そんな人たちがいる一方、自分のことしか見えずに、勝手なことばかり言ったり、やったりしている人たちもいたのだと思います。そんな中、イエス様はこれまで、人間の弱さ、愚かさ、罪のありさまを嫌というほどご覧になられ、その様子に心痛めておられたのではないかと思うのです。そして、それというのは、この時、一緒に食事をしていた弟子たちもさほど変わりがなかったろうと思います。そんな人々の姿、そして、弟子たちの姿をご覧になりながら、幾度も、腸がちぎれるような思いになられたのではないでしょうか。しかし、それでも目の前の人々を、そして、弟子たちを心から愛されたのです。そして、本日の箇所で、弟子たちに対し、パンを割かれながら、「あなたたちが生きるために、私をあげるよ」と言って差し出されたのです。

本日のこの主の晩餐の出来事を読みながら、何より、このイエス様の愛の眼差しを覚えていきたいと思います。私たちの現実には、色々なことがあります。悲しいこと、しんどいこと、辛いことがあります。イエス様は、そんな私たちの現実のただ中に来てくださいました。そんな中、その現実のただ中で、私たちと共に、痛み、悲しんでおられるのです。そして、それでも私たちを生かすために「あなたたちが生きるために、私をあげるよ」と言って、パンと杯を与えてくださっている…。それがこの主の晩餐なのです。このイエス様の差し出された愛によって、私たちは生かされ、救われるのです。

本日の箇所で、イエス様は御自身を「パン」に例えられました。「パン」とは、日々の命の糧です。この言葉を読みながら、思わされたことがあります。私たちは、イエス様を自分の命の糧として、味わったことがあるだろうか、そのイエス様を糧として、私たち自身、養われたという経験があるだろうかということでした。御言葉を自分の命の糧として、味わい、養われるということがあるでしょうか。先日、ある方とこんなことを話しした。

「私は、毎日の生活の中でもすぐに心揺れてしまいます。周りの人の声に流されそうになったり、自分が定まらなくなったり、一日の歩みの中でも、そんなことを繰り返している自分がいます。けれど、そんな自分が日ごとの御言葉で、立ち戻らされたり、立ち帰らされたりするのです。御言葉によって自分の心が定められ、自分が立つべき場所はここなんだということを再確認するのです。そんな時、自分は御言葉に養われているのだと実感します」。

お話を聞きながら、アーメンと思いました。私たちの信仰の原点はそこにあるのだと思いました。本日の箇所の「取って食べなさい。これはわたしの体である」という御言葉を読みながら、改めて、そのように、イエス様を糧として、御言葉を糧として、日々歩む私たちでありたいと思いました。(鈴木牧人)

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