本日のローズンゲンの御言葉です。
あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。詩編16:2
なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、
神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。フィリピ3:13-14

本日の箇所には、次のように記されています。
「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」
この御言葉を読みながら、「あなたのほかにわたしの幸いはありません」という言葉が心に留まりました。私は「幸い」という字を見る時、いつも思い出すことがあります。
「幸い」という文字には、よく似た言葉があります。それは「辛い(つらい)」です。
「幸い」の文字の一本横棒を取ると、「辛い」になります。このように大変似ているのですが、全く違う意味になるのが「幸い」と「辛い」です。 そんな中、私はこの二つの文字を見る時、いつも思うことがあります。「辛い」という文字は、よく見ると、漢字の頭の部分が「1」となっています。このことは印象的です。
私たちが1人で物事を抱えている時、向き合っている時、そんなふうに頭の中が「1」になっている時、私たちは私たちの置かれている状況に「辛い」しかなくなってしまうのではないでしょうか。
心貧しい状況、悲しみにある状況が「辛い」だけになるのです。
しかし、その「1」というところが、「十」に置き換えられる時、この字は「辛い」から「幸い」になるのです。
このことも、私たちに大切なメッセージを語っているのではないでしょうか。

私はこの「十」にイエス・キリストの十字架を思い浮かべます。私たちの頭の中が「1」であり続ける時、私たちは私たちの置かれている状況に「辛い」しかなくなってしまうかも知れません。
しかし、そんな私たちがイエス・キリストの十字架に出会い、私たちの頭の部分に、十字架が掲げられていく時、私たちは「辛い」と思えるような現実のただ中にあって、そこに天の御国の祝福を注いでくださる主に出会い、慰めを与えてくださる主に出会っていくことができるのです。
そのようにして、私たちは「辛い」のただ中に「幸い」を見出すことができるのです。
本日の「あなたのほかにわたしの幸いはありません」との御言葉を読みながら、改めてそんなことを思いました。ともすると、すぐに自分が1人だけのように思い、心ふさぎ込んでしまう私たちがいます。

しかし、そんな私たちをいつも顧み、赦し、愛し、私たちのために十字架におけるあがないと救いの道を拓いてくださったキリストを見上げていきたいと思います。

私たちの「幸い」の歩みは、いつもそこから始まっていくのだと思うのです。

(鈴木牧人)

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