本日のローズンゲンの御言葉です。
「主よ、わたしの神よ/御名のために、わたしに計らい/恵み深く、慈しみによって/わたしを助けてください。」詩編109:21
「彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」 ルカ15:20
先日、テレビを見ていたところ、ETV特集「沖縄を叫ぶ?彫刻家・金城実?」という番組が放送されていました。金城実さんは、これまで世に様々な問題を問う作品を発表してこられた彫刻家です。沖縄の読谷村で、「戦後、米軍による銃剣とブルドーザーによる土地接収と、それに抵抗する住民たちを取り上げたレリーフ」を100メートルに渡って製作しました。大阪では、在日朝鮮人として苦しんでいる人だったり、部落差別の問題で苦しんでいる人の様子を取り上げた作品などを製作してきました。それらの作品一つ一つは、見る人に強いメッセージを問いかける作品ばかりです。
その金城さんが、インタビューの中で、こんなことを話していました。
「沖縄の言葉には、『かわいそう』という言葉がない。『かわいそう』という言葉を沖縄の言葉で言い替えるなら、『肝苦しい(ちむくるしい)』だ。『かわいそう』は、何も問題のない人が相手を見て、『かわいそう』と思う…。そこには、上のものが下のものを見ている視点というものがあるのではないかしかし、『肝苦しい』とは、相手の苦しい様子を我がことのように自分の肝の部分から苦しんでいる言葉だ。そこに上から下の眼差しはない。同じ視点で思いを共有する眼差しがあるんだ。」
お話しを聞きながら、まさに金城さんはこれまで、沖縄の基地問題で苦しむ人や、在日朝鮮人の人たち、そして、部落差別で苦しんでいる人たちに対して、「肝苦しい」という思いで関わってこられたんだなと思いました。そんな中、同じ番組を見ていた息子が、「肝苦しい」の話を聞きながら、「これは聖書のメッセージと同じだね」と語っていました。確かに聖書には、「深く憐れむ」と書かれているところがあるのですが、この言葉はもともと「腸がちぎれる思いにかられる」という意味から来ています。それはまさに「肝苦しい」の言葉と重なってくるのではないでしょうか。
本日の御言葉には、次のように記されています。
「彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」
この御言葉は、有名な放蕩息子のたとえと呼ばれている場面です。ここで 「(父親が)憐れに思い」と言われている言葉も「腸がちぎれる思いにかられる」という言葉が使われています。
本日の聖書の御言葉を読みながら、金城さんの「肝苦しい」の言葉を思い出しました。
この時、父親は帰ってきた息子と同じ目線に立って、息子の痛みを自分のように痛みながら、「肝苦しい」という思いで思いやり、息子を迎えたのではないかと思うのです。そして、それが主の私たちへの眼差しなのだと思うのです。主は私たちの悩みや苦しみ、そして、痛みをご自身のことのように悩んだり痛んだり、苦しんだりしながら、私たちをおもいやってくださっている…。それが主の私たちへの眼差しなのだと思うのです。そして、そんなふうに、主が私たちのことを「肝苦しい」と思ってくれているということは、私たちにとってどれほどの励ましであり、慰めなのだろうと思いました。 (鈴木牧人)