本日のローズンゲンの御言葉です。
「主よ、我らを憐れんでください。我々はあなたを待ち望みます。朝ごとに、我らの腕となり/苦難のとき、我らの救いとなってください。」イザヤ33:2
「わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」エフェソ3:20-21
本日は、沖縄「慰霊の日」です。私たちバプテスト連盟では、この日を「命どぅ宝」の日として覚えています。
戦後72年を迎えるこの時、私たちは改めて、沖縄戦で犠牲になられた方々のことを心に覚え、祈りたいと思います。先週の宣教でお話しましたが、私の中で忘れられない言葉があります。それは、神学校を卒業したばかりの時に訪れた沖縄で、名護市の市会議員さんから聞いた言葉です。 「よく県外の人から、沖縄は基地があるから守られているんじゃないか、と言われることがあります。でも、戦争を経験した沖縄のおじいやおばあはそんなこと思っていません。かつての戦争で結局、兵隊さんたちはいざという時、自分たちのことを守ってなんてくれなかった…。兵隊たちは自分たちのことしか考えていなかった…。ですから、いざという時に兵隊さんが守ってくれるなんて言われても沖縄のおじい、おばあはそんなふうには思えないんです。」 私の中で忘れられない言葉です。それまで私の中にはどこか、「沖縄は基地があるから守られているんじゃないか」という思いがありました。けれど、沖縄のおじい、おばあはそもそもそんなことさえ思っていない…。この言葉は私の中で衝撃でした。そして、実際、そういう経験をしてきたのだと思うのです。胡屋教会牧師の渡真利文三牧師が、ある本の中でこんなことを書いています。
「激烈な戦場となった沖縄の人々は、軍隊は住民の生命を守ってくれるものと信じて、できる限り、軍隊の近くにいたいと思っていました。しかし、彼らは、住民に避難壕を掘らせて完成したら、住民を追い出して壕を取り上げるとか、また沖縄住民をスパイ視して虐殺していったのです。」 (渡真利文三 「終戦記念日を迎えて」 『ヤスクニ・天皇制 問題説教集・わかれ道に立って、よく見』 P146,147ヨルダン社)
ここに沖縄の人たちが戦時中、実際に経験したことが書かれています。沖縄の人たちは、戦時中、いざという時、日本の兵隊さんたちが自分たちのことを守ってくれるものだと思っていました。ですから、できるだけ、兵隊さんたちと一緒にいようとしたのでした。けれども、実際に兵隊さんたちが何をしたのかと言えば、沖縄の人たちが避難壕に逃げ込んでいれば、後からやって来て、「自分たちが使うから出て行け」と追い出したり、方言を使う沖縄の人たちを怪しんで、スパイ扱いしたり、「アメリカ軍に捕らえられるぐらいなら、自ら命を絶て」と自決を強要したのです。そんな中、沖縄の戦争の歴史の中でも、最も悲しい歴史の一つである集団自決が行なわれていったのでした。
そんな沖縄の人たちから見れば、「沖縄は基地があるから守られているんじゃないか」と言われても、そんなこと、とても思えないのです。そのような沖縄の人たちの思いを考える時、今も沖縄の人たちが置かれている状況に胸を痛めます。未だに沖縄には、全国の米軍専用施設の約70%が集中し、県民生活や経済活動に大きな影響を及ぼしています。そんな中、沖縄のことを考える上で、是非とも米軍基地の問題をも覚えていきたいと思うのです。
本日の箇所には、次のように記されています。
「主よ、我らを憐れんでください。我々はあなたを待ち望みます。朝ごとに、我らの腕となり/苦難のとき、我らの救いとなってください。」 本日の箇所を読みながら「苦難のとき、我らの救いとなってください。」という言葉が心に迫ってきました。そんな中、同時に心に思い浮かべたのは、「沖縄のおじい、おばあは、基地があるから守られているなんて、思っていません」という言葉でした。対照的な言葉ですが、二つの言葉を思いながら、改めて、私たちを守り、救ってくださるのは、主なんだなということを思いました。
明日から全国ロードショーで「ハクソーリッジ」という映画が始まるそうです。この映画の主人公は、沖縄戦で衛生兵として従軍したデスモンド・T・ドスという人の実話を描いた映画だそうです。この人は、セブンスデー・アドベンチストの敬虔なクリスチャンで、武器を持つことを拒んで、沖縄戦で敵味方を問わず、多くの人命を救ったことから、「良心的兵役拒否者」として初めて名誉勲章が与えられた人物だということでした。機会があれば是非見にいきたいと思っています。そして、実際の戦場で信仰を心に抱きながら、歩んでいった人物の歩みから、沖縄戦について改めて考える機会が与えられたらと思っています。 (鈴木牧人)