「命の声」

ヨハネによる福音書7:53-8:12

ここで最初に注目したいのは、イエス様と女性の言葉数の対比です。イエス様は三回言葉を発しますが、罪の現場で捕らえられた女性は一回だけです。女性が叫んだり、嘆いたりしている様子は伺えません。彼女自身が死を受け止め、沈黙を保っていたように思います。悪いことをしてしまったことは、彼女が一番分かっていたように思います。

この状況で、イエス様はどのようなまなざしで彼女をご覧になっていたのでしょうか。そのことを考えるときに、ある高校生の女の子の証を思い出します。その女の子は高校生になったときに人間関係で深く悩み、自分を責めるようになったそうです。リストカットにさえ踏み切ろうとした状況の中、イザヤ書43:4に目が留まったそうです。「わたしの目にあなたは価高く、貴く|わたしはあなたを愛・・する。」この言葉は神様から自分に宛てられた愛の言葉として受け留め、「私は生きていいんだ!」という思いが与えられたことを証ししてくれました。イエス様は同じ愛のまなざしで、無名の女性を見つめていたのではないでしょうか。声すらでない、彼女を貴い命の宝としてご覧になっていたのだと思うのです。

イエス様はまず8:7で言葉を語り、群衆は去ります。しかし、イエス様は去らずに、彼女と共に残り、彼女に二つの問を投げかけました(8:10)。すると、彼女は初めて声を出し、「主よ、誰も」と答えました。彼女が語った「主よ」は、信仰のはじまりの言葉のように思えます。イエス様が彼女に生きてほしいと願ったまなざしと、その呼びかけから芽生えた信仰の言葉でした。その次にイエス様は8:11で「わたしもあなたを罪に定めない」と告げ、彼女にゆるしを宣言されました。最後に聖書は8:12にこのような言葉を述べています。「イエス様は再び言われた。『わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。』」この言葉から、イエス様からの励ましが聞こえてくるように思います。彼女に対して、決してこれから一人で歩んでいくわけではない。もうすでに命の光が芽生えているではないか。私がその光なんだ。このことを忘れずに、光をもってこの場所から行きなさい。そのような励ましが聞こえてくるように思うのです。

イエス様は今も愛のまなざしをもって、全ての人を宝のような命としてご覧になっています。そして、私たちはイエス様と出会い、内から「命の声」が湧き出てくるのだと思います。「生きたい!生きていいんだ!」と言う「命の声」が湧き出ているのです。そして、イエス様の愛のまなざしは、私たちだけでなく、私たちの周りの人にも向けられています。私たちの周りに「生きたいけど、生きられない」そのような声が聞こえてくるのではないでしょうか。わたしたちはその声に耳を傾け、その声と共に嘆くことができるのだと思います。そして、共にイエス様の愛のまなざしに生かされながら、「命の声」を分かち合うことができるのです。

西本詩生神学生

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