「なぜ何も答えないのか?」

マタイ26章57-68節

 本日の箇所には、祭司長たちと最高法院の人々がイエス様を死刑にするため、裁判を行なった様子が記されています。この記述を読みながら、つくづく、こんな裁判おかしいと思ってしまいます。正義と公正に則って行なわれるのではなく、最初からイエス様を死刑にするために裁判を行なっているのです。そんな中、イエス様が死刑にできるような証言を聞き出そうと、様々な偽証人が立ちました。しかし、これらの証人たちは恐らく、慌てて用意された証人だったのでしょう。証言していることがお互いに一致しませんでした。さすがに建前上でも、裁判の証言として採用するわけにはいきませんでした。そういう状況で、しびれを切らしたカイアファはイエス様に詰め寄り、イエス様がお答えになった一言を取りあげて、「(イエスは)神を冒涜した」(26:65)と訴えたのです。

本日の箇所には、色々な人の言葉が飛び交っていました。しかし、肝心のイエス様の言葉はそこにはありませんでした。人々があれこれと物をいう中で、イエス様は黙っておられました。何故イエス様は黙ったままだったのでしょうか。それは、何より、人々が聞く耳をもっていなかったからだと思います。本日の箇所でカイアファは「何で答えないのか」とイエス様に詰め寄りました。しかし、カイアファは、本気になってイエス様の言葉を聞こうとはしていなかったと思います。イエス様がどんなことをおっしゃったとしても、自分たちの思いも変わらなかったでしょうし、自分たちの主張も変わらなかったのだと思います。そのように、イエス様が何を言っても聞く耳を持っていなかったのです。ですから、イエス様も何もおっしゃらないのです。そして、そのような人々の姿を見る時、人々の姿が自分自身に問われているのではないかと思いました。私たちはイエス様を死刑にしようと考えるようなことはないのだと思います。しかし、本日の箇所の人々のように、自分の思いが先に立ってしまって、気持ちが前のめりになって、最初からすでに答えありきで、物事に向き合っているということがあるかも知れません。そういう時というのは、「本当に聞くべき言葉に耳を傾けることができない」ということがあるのではないでしょうか。自分にとって都合のいい言葉は聞けるのですが、そうでない言葉は聞けないのです。そして、それは聖書の御言葉に対しても、同様です。御言葉に耳を傾けているつもりでも、どこか気持ちが前のめりになっていて、本当の意味で聞く耳を持てなくなっているのです。

本日の箇所を読みながら、改めて「聞く耳を持つ」ということは大切だと思いました。私たちの信仰というのは、そのように「神様に聞こうとすること」「聞き続けようとすること」そのことの積み重ねが大切なのではないでしょうか。今の時代は、本当に慌ただしいです。不安になったり、焦ったり、あれこれと考えなければならないことがたくさんあって、心がどうしても、気持ちが前のめりになってしまいます。そういう中で、御言葉に聞けなくなってしまうことがあるのだと思います。しかしだからこそ、信仰をもって、神様の前に静まり、聞き続けること、聞く耳を持ち続けようとすることは本当に大切なことなのだと思います。

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