「そんな人は知らない」

マタイ26章69-75節

 この数時間の間に起こった出来事は、ペトロにとって、受け止められないことばかりでした。一瞬にして、自分が信じてきたもの、これまで積み上げてきたもの、目指していたものが崩れてしまったのです。ペトロの心にはきっと色々な思いが渦巻いていたのではないかと思います。聖書には「ペトロは遠く離れてイエスに従い」(26:58)と記されています。この「遠く離れて」という言葉は、そのまま、ペトロの心境を表している言葉なのではないでしょうか。ペトロはイエス様が捕らえられた後も、イエス様に従おうとしていました。しかし、かつてのようではないのです。イエス様から遠く離れている…。これまでのように、イエス様を見上げられないし、信じられない…。そんなペトロがいたのだと思います。

私たちもそういうことがあるかも知れないと思います。信仰の歩みの中で、傷ついたり、躓いたりしながら、イエス様に対して、どうしても斜に構えたり、自分の中でどこか距離を取ろうとしたり…。私自身、そういうことがあるように思います。理由は色々です。色々なことがあって、どうしても納得いかなかったり…。全くもって自分自身の問題として、心がふらふらと迷いこんでいたり…。そんなふうに色々ですが、私自身、いつの間にか「遠く離れて」イエス様に従っているということがあるのではないかと思います。そして、そんな自分を振り返りながら思います。そういう時というのは、正直、しんどかったりするのではないでしょうか。自分の心の中がどこかモヤモヤとしていて、先の見えないトンネルを歩いているような、そういう心境なのではないかと思うのです。ペトロもそうだったのではないでしょうか。そんな中、ペトロは信じるものが分からなくなって、本当に弱り果てていたのだと思います。確信を失ったペテロの心は、もはや風前のともし火でした。憲兵たちどころか、一人の女中の言葉さえ、まともに受け止めることができませんでした。ペトロはくり返し、くり返し、イエス様のことを「知らない」と言ってしまいます。ペトロの心は、かき乱され、もう何が何だか分からなくなっていたのだと思います。そんな中、突然、鶏が鳴き出しました。その時、ペトロはハッとさせられました。イエス様が最後の晩餐の席で言われた言葉を思い出したのです。そして、ペトロは、「外に出て、激しく泣いた」(26:75)のです。私はこの箇所を読む時、鶏の鳴き声が「残酷だな」と思ってしまいます。ペトロは、この時、ただでさえ、弱りはて、心がボロボロになっていました。そんなペトロに追い打ちをかけるような鶏の鳴き声だったのだと思います。でも、一方で思うのです。ペトロにとって、この鶏の鳴き声は残酷なものだったかも知れませんが、この鳴き声によって、ペトロは我に帰ることができたのです。この鳴き声によって、イエス様の言葉を思い出し、「やっぱり、イエス様は正しかったんだ」と気づけたのです。そのように考える時、ペトロにとって、この鶏の鳴き声は、イエス様の変わらない真実を再確認する声だったと言えるのではないかと思います。そして、信じるものを失い、真っ暗なトンネルを歩いていたペテロにとって、そのトンネルを抜ける救いの扉を開き始める出来事でもあったのではないかと思うのです。

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