「自分が何をしているのか」

マタイ27章1-2節

 イエス様はゲッセマネの園で祈られていた時、憲兵たちに捕らえられました。その後、大祭司カイアファのもとで裁判を受けることになります。しかし、ここでの裁判はあくまでユダヤ人たちによる裁判であり、彼らがいくらイエス様を死刑と断罪しても、実際に死刑を執行することはできませんでした。当時、死刑を執行するためには、ローマ総督の許可を取る必要があったのです。このため、祭司長たちや民の長老たちは、死刑を執行するために、総督ピラトのところに許可をもらいに出かけて行ったのです。

本日の箇所は大変短いです。しかし、このたった二節の記述に本当におかしなことが書かれているんじゃないかと思います。何がおかしいのかと言いますと、ここで祭司長たちや民の長老たちがしていることです。彼らは自分たちが何をしているのか、本当に分かっていたのでしょうか。聖書の時代、彼ら祭司長たちや民の長老たちを始め、ユダヤの人々が何よりも望んでいたものがありました。それは、神様が自分たちに送ってくださると約束されていた「メシア、救い主の到来」でした。当時、ユダヤの人たちは、ローマ帝国に圧政に苦しめられ、この苦しい状況から解放され、救い出されたいと願っていました。そんな中、神様から遣わされるメシアを待望していたのです。神様はその救い主メシアとして、イエス・キリストを遣わされました。ユダヤの人々にしてみれば、待望のメシアが来たのです。しかし、本日の箇所で、祭司長たちや民の長老たちがしていることは何でしょうか。彼らは「イエスを殺そうと相談し」ました。「そして、イエスを縛って引いて行」ったのです。さらに彼らがしたことは、そのイエス様をこともあろうに「総督ピラトに渡した」というのです。彼らは何より、ローマ帝国の圧政に苦しみ、そこから自由になりたい…。解放されたいと願っていたのではないでしょうか。にも関わらず、彼らはそのローマ帝国の総督であるピラトにイエス様を引き渡したのです。そのように考えてみる時、祭司長たちや民の長老たちに対して、「あなたたちは一体何をしているの?」「あなたたち、神様からのメシア、救い主を待ち望んでいたんじゃないの?」「ローマ帝国から解放されたかったんじゃないの?」と思ってしまうのです。彼らは本来、自分たちが望んでいるはずのことと、全く反対のことをしているのではないでしょうか。

そんな彼らの姿を見ながら思うのは、「罪」の問題です。聖書が語る「罪」とは、ギリシア語で「ハマルティア」と言います。「的はずれ」という意味です。的を狙って、矢を射るのですが、的の真ん中に矢がいかず、的をはずしてしまう…。それが「ハマルティア」です。この「罪」の問題を色濃く表しているのが、本日の箇所ではないでしょうか。祭司長、民の長老たちは、神様からのメシアを待ち望み、ローマ帝国から解放されたかったのに、イエス様を殺そうと躍起になり、ローマ帝国には従順に従っていました。まさに的はずれの方向に向かい、取り返しのつかない過ちを犯そうとしている…。本日の箇所には、そんな祭司長たちや民の長老たちの「的はずれの罪」の問題が浮き彫りになっているのです。

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