本日のローズンゲンの御言葉です。

「わたしはあなたをいやす主である。」 出エジプト15:26

「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」 1ペトロ2:24

先日、教会学校で創世記2章に記されている人間の創造の記述を読みました。私は今回、中高科の分級に参加させていただいていたのですが、その中で創世記2:21-22の御言葉が話題になりました。

「主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。」(創世記2:21-22)

この箇所は、最初の人アダムから、エバが創造されていく場面です。この御言葉を読んで、分級に出席していた息子が「『主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた』という箇所が心に残った」と話していました。「この箇所について、牧師先生はどう思いますか」と聞かれたので、こんなふうに答えました。

「深い眠りに落とされたんだから、きっとアダムは自分にも分からない内に、あばら骨を抜き取られたんだろうね。でも、抜き取られた時には、痛みも何も感じなかったとしても、きっと身体はそのことを覚えていたんだと思う。そして、本人も自覚しないところで、自分の中に、失われたものがあることを感じていたんじゃないかな。そして、自分の中に欠落したものや傷を抱えていたんじゃないかと思う。最初の人アダムは、そんなふうに自分も自覚しない心の深い部分で、そういうものを抱えていたんだっていうふうに読むことができるかも知れないね。そして、そういうことは、私たちもあるんじゃないかな。私たちもそれぞれ、アダムが経験したようなあばら骨を失う経験をしているのかも知れないよ。自分でそのことを自覚すらしていない、分かっていない、そういう心の深い部分で、自分の中に失なってしまった『何か』を引きずっていたり、痛みを抱え続けているということがあるかも知れない。そういう部分で癒されていない傷だったり、満たされることのない思いというものを抱えていることがあるんじゃないだろうか。そして、そういう部分が癒され、満たされるのは、主の取り扱い以外にないんだろうと思うよ。」 そんなお話をしました。

本日の箇所には、次のように記されています。

「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」

本日の御言葉を読みながら、「そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」という言葉が心に留まりました。そして、思ったのは、先日、教会学校の中高科で話した「あばら骨の話」でした。

私たちはそれぞれ、心のどこかに「あばら骨」を失ったような悲しみや痛みを抱えているということはないでしょうか。でも、そんな悲しみや痛みを、私たちはイエス様との出会いによって癒されていくことができるのだと思います。そして、そのような癒しの経験を通して、私たちはイエス様と本当に深いところで出会っていくことができるし、イエス様と繋がっていくことができるのではないかと思います。イエス様とそのような出会いを経験するということは、本当にかけがえのない経験です。ぜひ、そのような出会いを経験していきたいと思いますし、未だ、イエス様に出会っていない人に、このイエス様を伝えていけたらと思います。

先週の土曜日、自宅で倒れて腰を強打したY姉がMRIで検査したところ、圧迫骨折していることが分かり、入院することになりました。本日、午後にお見舞いに行こうと思っています。Y姉の体調のため、早期回復のため、お祈りください。Y姉の上に、心身ともに主の癒しの業がなされていきますように祈ります。

(鈴木牧人)

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