「自由への招き」

マタイ27章3-10節

 これは自分自身のこととして思うことがあります。私たちは、しばしば「心が狭くなってしまう」ということがあるのではないでしょうか。心が狭くなってしまいながら、目先のことしか見えなくなったり、自分のことしか見えなくなったりすることがあるのではないかと思うのです。そして、そんなふうに心が狭くなっている時に私たちが選び取っているものが何かと言えば、その場限りの思慮に欠けた、危うく、愚かなものだったりするのではないかと思います。本日の箇所の記述は、その最たる出来事かも知れません。イスカリオテのユダは、イエス様の弟子でありながら、イエス様を裏切ってしまいました。やがて、自分がしでかした過ちに気づくと、どうにもならなくなって、自ら命を絶ってしまうのです。

私はイスカリオテのユダの姿を見る時、ある先生の言葉を思い起こします。その先生は、こんなことを言いました。「私たちの心にささやきかけるサタンというのはね。私たちのことを二つの言葉で支配しようとするんだ。それはこういう言葉だ。まだ罪を犯す前の私たちに『これぐらい、過ちを犯したって、問題ない。みんなやっていることだ。大したことじゃない』と言って、私たちを罪に誘う。しかし、私たちが実際にその言葉に誘惑されて罪を犯すと突然態度を変えて私たちを訴える。『あなたのした罪はとんでもない。こんな罪を犯したら、もう赦されることなんてない』そう言って私たちを責め立てるんだ。」

聖書に記されているイスカリオテのユダの姿を見ていく時、まさにそのような「サタンの二つの言葉」に支配されているように思えてなりません。イエス様は、ご自身が十字架に架かる直前、弟子たちに「人の子を裏切るその者は不幸だ」(26:24)と警告をされました。しかし、ユダの耳にはその言葉が耳に入りませんでした。しかし、イエス様を裏切った後、自分がとんでもないことをしでかしてしまったと気づくのです。すると、今度は自責の念にさいなまれ、どうにもならなくなって、自ら命を絶ってしまうのです。まさに、罪を犯す前には、問題性が全く分かってなくて、罪に犯してしまい、罪を犯した後に初めてそのことが分かって、『もう赦されない』と言って責めたてられ、逃げ場を失ってしまう…。「サタンの二つの言葉」に見事に支配されているユダの姿があるのではないかと思います。

先ほどの先生は、「サタンの二つの言葉」を紹介しながら、私たちが何より心したいのは、「聖書の神様は何とおっしゃっているかということなんだ」おっしゃっていました。「聖書の神は、義の神様だ。いけないことはいけない、ダメなものはダメとおっしゃる。だから、私たちが罪を犯そうとするなら、『それはいけない』とおっしゃる。しかし、この神様は愛と赦しの神でもある。だから、私たちがもしも過ちを犯してしまったとしても、それでもなお、私たちに『立ち帰って来なさい』と呼びかけ続けておられるんだ。そのようにサタンの言葉とは、全く正反対のことを言われるのが、神様のメッセージなんだ。」私たちはともすると、心が狭くなって、この「サタンの二つの言葉」に心が翻弄されてしまうことがあるかも知れません。そんな中、何よりこの神様のメッセージに耳を傾けていきたいと思うのです。

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