「信仰の不思議」

マタイ27章11-14節

「それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った」(27:14)。本日の箇所で、ピラトは、イエス様の姿を見て、「何でこのイエスという男は、こんなことをしているんだろう。こんなふうにできるんだろう」と「非常に不思議に思った」と記されています。ピラトは、ローマ帝国から遣わされた地方総督でした。そんなピラトのもとにイエス様が連れてこられました。祭司長たちは「この者はユダヤ人の王だと自称し、ローマ皇帝に対する政治的な反逆を犯そうとしています」と言ってイエス様を訴えたのです。しかし、ピラトは祭司長たちの企みを見抜いていました。「人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていた」(27:18)というのです。それゆえ、ピラトはイエス様が当然、自分の身の潔白を弁明するものだと思っていました。しかし、祭司長たちや長老たちがイエス様を非難し、言いがかりのような罪を訴えても、何の反論もなさいませんでした。ピラトは思わず、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」(27:13)と問いただします。しかし、それでも何もお答えにならないイエス様の姿に、ピラトは「不思議に思った」というのです。おそらく、ピラトはこれまで、幾度となく、裁判の場所に立ち会ってきたのではないでしょうか。何には、とんでもない犯罪人もいたでしょうし、不法な形で捕らえられた人もいたでしょう。しかし、いずれにしても、人々は裁判官であるピラトに対して、必死になって弁明したのだろうと思うのです。それがピラトからすれば、普通の行動でした。ですから、イエス様の沈黙は不思議でならなかったのです。

何でイエス様は沈黙しておられたのでしょうか。色々なことが考えられるかも知れません。ただ何より思うのは、イエス様の沈黙は、信仰から来ていたのではないかということです。人々の色々な思いが渦巻き、人々が勝手なことを振る舞い、「神様なんかどこにいるんだろうか」と思えてならない状況にあって、イエス様はなおも、信仰でもって、父なる神様を見上げていたのです。そして、人々からいくら不当な扱いを受けたり、誤解されたり、訴えられたとしても、このただ中に神様の御支配があることを信じ、一切を神様に委ねておられたのです。それゆえ、本日の箇所において沈黙されていたのではないかと思います。そのように、本日の箇所のイエス様の沈黙は、神様への信仰から来る行動だったのだと思うのです。

ピラトはそのようなイエス様の姿を目の当たりにし、不思議に思いました。色々なことを考えさせられたり、感じたところがあったのではないかと思います。もしかしたら、イエス様の姿に心惹かれるところがあったかも知れません。そんなことを考えながら、思わされたことがあります。それは、本日の箇所でピラトがイエス様に感じた不思議に出会うという経験…。それが、信仰の入口に立つということかも知れないなということです。信仰の世界の不思議に出会い、何でこの人、こんなことをしているんだろう…。こんなふうにできるんだろう…。こんなふうに考えるんだろう…。そういう不思議を感じる…。そういう問いが湧き上がるところから、信仰への探求は始まるのではないでしょうか。

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