「十字架につけろ①(ピラトの眼差し)」
マタイ27章15-26節
本日の箇所に記されているピラトについて考える時、ピラトは色々なことが分かっていたのだろうなと思います。27:18には、ピラトが、「人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていた」(27:18)ことが記されています。また、ピラトがイエス様の裁判をしていた時、ピラトの妻から「あの正しい人に関係しないでください」(27:19)と助言を受けたことが記されています。そのように、ピラトはこの裁判の最中で、色々なことが分かっていたのだと思います。そして、おそらく、このままイエス様を死刑にすることがよくないということも分かっていたのではないでしょうか。しかし、ピラトは死刑を容認してしまいます。そんなピラトの心境について、聖書は「ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て」(27:24)と記しています。ピラトは群衆の様子を見て、「それ以上言っても無駄」だと思ったのでした。自分としてはそうしたくないと思ったのですが、現状を見て、どうしようもない…。これ以上何を言っても無駄だと、諦めてしまったのです。もう一つ、ピラトが思ったのは、「かえって騒動が起こりそうなのを見て」ということでした。この状況をこのまま、ズルズルと問題を放置していけば、状況はもっと悪くなるかも知れない…。そのような危機感と恐れを感じたのです。結果、ピラトは、よくないことと知りつつ、イエス様を十字架につけることを容認したのでした。
そんなピラトの姿を思う時、自分がこの状況にいたら、どうだろうかと思います。ピラトと同じような判断をしてしまわないだろうかと問われるのです。しかし、それだからこそ、なおさら考えさせられます。ピラトは諦めと恐れの思いから、イエス様を十字架につけていったのですが、それはやはり賢明な判断とは言えませんでした。総督としての面子は保ち、その場の暴動は回避することができたかも知れません。しかし、結果、ピラトは「神の子を殺害する」ことを容認するという取り返しのつかない過ちを犯してしまったのです。
ピラトの過ちというのは、私たちも犯してしまう過ちなのかも知れません。どうでしょう。私たちが置かれた状況で、その時の判断として総合的に何かを判断する…。そう判断してしまうことは止むを得ませんし、誰だって、その場に置かれたら、そんなふうに思ってしまうかも知れない…。だけれども、それが本当に賢明な判断なの?とよくよく考えてみる時、それだけじゃないんじゃないかと思う…。色々考えているつもりでも、やはりどこか目先のことに心奪われて、一番大切なことが見えていないし、決定的なところで大きな判断ミスを犯してしまっている…。私たちはそういうことをしてしまうことがあるのではないでしょうか。
本日の箇所で何より思うのは、ピラトがもし聞く耳を持っていたらということです。ピラトは大切な言葉を聞くことができたのではないでしょうか。実際、神様はピラトに対して語りかけてくださっていました。それは何より、27:19にある妻からの伝言なのだと思います。もしもピラトがこの妻の言葉に聞く耳を持っていたら、もっと別の判断ができたかも知れないと思うのです。しかし、ピラトはその言葉を素通りしてしまうのです。