「十字架につけろ②(バラバの正しさ)」
マタイ27章15-26節
ある注解書に「バラバは熱心党と呼ばれるグループの一員だったのではないか」と書かれていました。熱心党というのは、当時の政治に不満を持ち、自分たちなりの理想を掲げて、それを具現化しようとした人たちでした。かなり過激な思想の人たちで、自分たちの信念を実現するためには手段を選ばず、暴力を使ってでも正しさを貫こうとする・・・。そういう人たちでした。バラバはそんな熱心党の一員だったのではないかと言うのです。
私は以前、バラバについて、「ただの極悪人」というイメージを持っていました。しかし、バラバが熱心党の一員だったのではないかという話を聞き、それだけではなかったのかも知れないと思いました。バラバという人は、ある意味、彼なりに正しいことをしようとした人でもあったのかも知れません。でも、自分の正しさに固執するあまり、どこかでおかしな方向に向かってしまったのではないでしょうか。自分の正しさに固執するあまり、周りが見えなくなり、いつの間にか、迷ってしまい、行きつくところまで行ってしまったのです。そして、そういうことというのは、私たちもあるかも知れません。バラバのように過激ではないにせよ、私たちなりに正しいことをしようとするのですが、自分たちの正しさに固執するあまり、心がどんどん狭い方向に向かい、周りが見えなくなって、正しいことを追い求めながら、いつの間にか、そのような歩みに行き詰ってしまう…。そんなことがあるのではないかと思うのです。中島みゆきさんの「Nobody is Right」という歌にこんな歌詞があります。
「もしも私が全て正しくて/とても正しくて/周りを見れば
世にある限り全てのものは/私以外は間違いばかり
もしもあなたが全て正しくて/とても正しくて/周りを見れば
世にある限り全てのものは/あなた以外は間違いばかり
つらいだろうね/その一日は/嫌いな人しか出会えない
寒いだろうね/その一生は/軽蔑だけしか抱けない」
歌詞を聞きながら、本当にそうだなと思いました。どうでしょう。私たちはそんなふうに「私が全て正しい、とても正しい」そういう思いになったことはあるでしょうか。そういう思いで周りを見渡してみた時、私たちの目には、どんなものが見えてくるでしょう。
本日のバラバについて考えながら、バラバもそうだったんじゃないかと思います。「私が全て正しい、とても正しい。周りが間違っている」。バラバはそういう思いだったんじゃないかと思うのです。確かに当時の状況として、そういうふうに思えても仕方のない状況があったのだと思います。周りにはたくさんの矛盾や、理不尽なこと、間違いがありました。ただ、だからと言って、バラバが絶対的に正しいわけでもありませんでしたし、バラバが「私が全て正しい、とても正しい」としている限り、何も生まれませんでした。孤独になるばかりだったのです。そんな行き詰った状況の中で、先の見えない牢獄の日々を過ごしていたのです。しかし、そんな日々を過ごしていたバラバが、イエス様によって解放されたのでした。