「十字架、それはわたしのために」

マタイ27章27-31節

本日、お読みした聖書の箇所は、イエス様がローマの憲兵から様々な拷問を受けたり、辱めを受けたという箇所です。本日の箇所を読む時、本当に胸を痛くなります。余りに残酷な様子に目を背けたくなります。ここには私たち人間の愚かさや罪の深さの極みの様子が表されているのだと思います。しかし、そんな中、私たちが本日の箇所から何より、覚えていたいことがあります。それは、イエス様がこれほどの痛みや苦しみを通らされてもなお、十字架に向かわれたのは何故かということです。それは、それでも主が私たちを愛してくださったからでした。私たちは何より、そのことを覚えていたいと思うのです。イエス様がどれほど私たちを思ってくれているのか、どれほど私たちのために苦労し、犠牲を払い、忍耐をしてくださったのかということを受け止めていきたいと思います。

何というのでしょう。私たちは時々に自分のことだけしか見えなくなっていることがないでしょうか。そういう思いの中で、気持ちが一杯一杯になっていたり、やり場のない思いを抱えていたりしていることがないかと思います。そして、そんなふうに自分のことしか見えていない私たちが、ある時、気づかされることがあります。今まで気づかなかったけれども、実は自分がどれほど思われてきたのか…。祈られてきたのか…。自分のためにどれほど苦労をし、犠牲を払い、忍耐をしながら、思ってくれた人がいたのか…。そういうことに気づかされることがあります。それは本当にかけがえのない気づきだと思いますし、そのことを気づかされることで、私たちの思いが180度変えられることだってあるのだと思うのです。

本日、お二人の姉妹が信仰告白を受け、バプテスマを受ける決心をされました。バプテスマを受けるということは、そういうことなんじゃないかと思います。礼拝が始まる前に、お二人と祈りを献げました。その中で、こんな祈りをしました。お二人とも、姪浜教会に来てから、まだ数ヶ月ですが、神様は私たちがお二人に出会う前からずっとお二人のことを知っていてくださって、お二人の歩みを取り扱ってくださっていたのだと思います。そのことを覚え、感謝する祈りを献げました。そんな祈りを献げながら、改めて、どれほど神様がお二人を思い、愛をもって関わり続けてくださったのかということを思いました。その愛がいよいよ、お二人を捕らえ、思いが変えられ、イエス様に信頼し、従っていく歩みに踏み出していきたいという思いが与えられた…。それが、本日のバプテスマへの思いなのだと思います。

本日のメッセージ題を「十字架、それはわたしのために」としました。私たちがそのように、イエス様の十字架を知り、その意味を知り、「十字架、それはわたしのために」と気づくことは本当に素晴らしい経験です。私を変える出来事となっていくのだと思います。私たちがこの十字架の意味に気づかされる時、私たちの思いは解き放たれ、満たされなかった思いを満たされ、イエス様の十字架の愛と赦しが何より確かな支えとなっていくのだと思います。

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