本日のローズンゲンの御言葉です。

お前たちの罪がこれらを退け/お前たちの咎が恵みの雨をとどめたのだ。エレミヤ5:25

徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』ルカ18:13

本日の箇所には、次のように記されています。

「徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』」

この箇所を読みながら、この徴税人はどういう思いだったんだろうと考えさせられます。

徴税人というのは、当時、人々から不正にお金を巻き上げ、様々な悪を行なっていたと言われる人たちでした。当時のことわざに「野にはオオカミ、町には徴税人」という言葉があったほど、周りの人から毛嫌いされ、徴税人イコール罪人というイメージができあがっていました。この徴税人もきっと、他の徴税人と同様、様々な罪を重ねていたのではないでしょうか。

そんな中、この人は神殿で祈るのです。しかし、神殿の真ん中に立つことはできません。

遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら祈ったというのです。

「この人は、罪を犯したのだから、そんなふうにしているのは当然だ!」と思う人もいるかも知れません。しかし、私は本日の箇所を読みながら、「この人は、よくこんなふうにできたな」と思ったりもするのです。自分だったらどうだろうか…。

この徴税人のような立場に置かれていたとしても、自分の過ちをいつまでも認めることなく、心頑なにさせたりしていないだろうか…。

あるいは、自分の罪を認めざるを得なくなって、神様の前のまっすぐに出れないと思っているとするなら、今度は塞ぎこんでしまい、自分で全部の問題を抱え込んで、悶々とし、自暴自棄になってしまうかも知れません。

そんなふうに、「自分だったらどうだろう」ということを考える時、この箇所で、徴税人が自分の過ちを認め、遠くに立って、胸を打ちながら、それでも、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈っている姿に、「よくこんなふうにできたな」と思うのです。

そんなふうにすることは、ある意味、本当に勇気のいることだったのではないかと思います。

9月1日は、一年で最も自死者が多い時期だと言われます。

新しく始まる学校などに馴染めず、自ら命を絶ってしまうことが多いというのです。

色々な思いを自分一人で抱え込んで、行き場を失ってしまう…。

そんなことがあるのかも知れません。

そんなことを思いながら、本日の御言葉に記されてる徴税人の姿が心に迫ってきました。

そして、思わされたのは、私たちには逃れの場があるということでした。

たとえ、失敗をしたり、過ちを犯したり、迷ってしまったとしても、私たちには逃れの場がある…。

徴税人がそうしたように、神様のもとに逃げ込みながら「神様、わたしを憐れんでください」と祈ることがゆるされているのです。その神様に一歩を踏み出す勇気を持てたらと思いました。

(鈴木牧人)

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