「今すぐ十字架から降りるがいい」
マタイ27章33-44節
本日の箇所は、人々が十字架にかけられたイエス様を嘲っている箇所です。本日の箇所を読みながら「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」(27:42)という言葉が心に迫ってきました。この言葉は人々がイエス様を嘲って語った言葉ですが、この言葉を読む時に、単なる嘲りの言葉ということだけで済まされないかも知れないと思いました。この御言葉から、私たちは大切なメッセージを聞くことができるのではないでしょうか。
マタイ16:21-23には、イエス様が弟子たちに対して、御自身がやがて十字架にかけられるんだということを打ち明けられた様子が記されています。この時、一番弟子のペトロは十字架の話をするイエス様をわきに連れていき、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(16:22)といさめました。私はイエス様の十字架を拒むペトロの姿を思う時、本日の箇所で人々がイエス様に対して、「十字架なんかにかかっているな、十字架から降りてこい」と嘲る声とどこか重なってくるように思えます。もちろん、思いは全く違いますが、本質的な部分で重なってくるところがあるのではないかと思うのです。イエス様は十字架をこばもうとするペトロに対して、「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」(16:23)と言われました。十字架を拒もうとするペトロに対して、それは人間の肉の思いなんだとおっしゃったのです。私たちにはそういう思いがあるのではないでしょうか。イエス様の十字架に対して「そういうものを見たくない」「十字架がないところでイエス様を見上げていたい」という思いがあるのではないかと思います。そんな私たちには、「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」という思いがあるのではないでしょうか。実際、時々にこんな質問を受けることがあります。「人知を超えた存在としての『神様』がおられるということは信じている。けれども、その『神様』とイエス様が繋がらない。そして、イエス様が何故十字架に架かられたのかが分からない。復活も分からない。」この質問のように私たちにはイエス様の十字架に対して、違和感や抵抗を感じる思いがあるのだと思います。
聖書には「『見よ、わたしはシオンに、/つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない』と書いてあるとおりです。」(ローマ9:33)という言葉があります。この御言葉にあるように、聖書の世界、信仰の世界にはどうしても避けられない「つまずきの石」があります。そのつまずきの最たるものこそ、イエス・キリストの十字架なのだと思います。私たちはしばしば十字架という石につまずきます。十字架ということがあるがゆえに、信仰のことが分からなくなってしまうことがあります。そして、それはある意味、必然なのかも知れません。しかし、この御言葉がその上で呼びかけていることがあるのです。私たちは十字架につまずくことがあるかも知れません。信じられないと立ち止まってしまうかも知れません。しかし、この十字架を信じるなら、私たちは失望しない…。この十字架から招かれている信仰の世界の中に、揺るがない本当の希望を見いだすことができる…。そのようにこの御言葉は呼びかけているのです。