「本当に、この人は神の子だった」
マタイ27章32-44節
本日の箇所というのは、イエス様が十字架につけられ、亡くなられた場面です。この十字架の一部始終を見ていたローマの百人隊長は、「本当にこの人は神の子だった」と語りました。本日はこの言葉に注目したいと思います。何故この百人隊長はこのように語ったのでしょうか。それは何より私たちの思いを越えた神様の取り扱いがあったからだと思いますが、一方で思うことがあります。それはこの百人隊長が本日の箇所で「本当にこの人は神の子だった」と語るに至るまで色々な思いを通らされたのではないかということです。おそらくこの百人隊長人は、十字架に向き合いながら、たくさん自問自答したのではないでしょうか。この百人隊長は最初からイエス様のことを信じていたわけではなかったと思います。そもそもイエス様のことなんか知らなかったかも知れません。しかし、十字架刑を執行する中で、色々なことを考えさせられたのではないでしょうか。そして、自分の中で色々な思いや問いが湧き上がってきたのだと思うのです。十字架へと向かわれるイエス様を見ながら、この人は本当に十字架につけなければならない極悪人なのだろうか…。自分たちは一体だれを十字架につけようとしているのだろうか…。自分たちのしていることは本当に正しいのだろうか…。そんな様々な思いが、問いとして湧き上がってきたのではないでしょうか。そして、そのような思いに自分自身の中で自問自答する中、自分が今、十字架で処刑しているこの人こそ、神の子だ…。そのような告白に至ったのだと思うのです。
何というのでしょう。本日の箇所を読みながら、ご一緒に考えたいと思ったのは、この百人隊長の自問自答している姿です。もしも、この百人隊長が、そう言った問いを持たなかったら、おそらく百人隊長が「本当にこの人は神の子だった」だと言うことなどなかったと思います。この人は、考え、悩んだからこそ、そのような思いに至ったのです。そして、そのことを思う時、目の前のことに向き合い、自分自身に問うこと…。それは本日の百区人隊長の告白を考える上で大切なキーワードとなるのではないかと思うのです。
先日、ある方と話をしている時、こんなことをおっしゃっていました。
「自分はこれまで、人生をがむしゃらに生きてきました。現在、人生の節目を迎えようとしています。そんな中、これからもこれまでのような人生を続けていくのだろうか。それでいいんだろうかと思わされています。そんな自分には、今、何より、聖書の御言葉に静まる時が必要だと思わされます。御言葉にしっかりと向き合い、御言葉に自分の思いが整理されていくことが今自分に一番必要だと思うのです。」
私はその方の言葉を聞きながら、すごいなと思いました。自分の人生を立ち止まり、今一度、足もとを見据える…。口ではよく言われますが、実際には中々できないことです。実際の歩みでは、慌ただしい日々の中で、中々、自分自身をかえりみたり、足もとを見れなかったりするのではないかと思います。そんなことを思う時、実際に立ち止まって、御言葉に向き合っておられるその方の姿に大切なことを教えられるように思うのです。