「墓の方を向いて座っていた」

マタイ27章57-61節

本日の箇所は、イエス様が十字架にかけられた後に、墓に埋葬された場面です。この時、イエス様の遺体を引き取りたいと名乗り出たのは、「アリマタヤ出身の金持ちでヨセフ」(27:57)という人物でした。ヨセフはこれまで、どんな思いで過ごしてきたのでしょう。心にはずっと、悶々とした思いを抱えていたのではないかと思います。彼自身としては、これまでもイエス様を信じ、受け入れていました。しかい、それを公にすることができないでいました。皆にそんなこと知れたら、どうなるか・・・。同胞のユダヤ人たちから何を言われるか、どんなことをされるか、分かりませんでした。自分の立場が危うくなることも考えられました。しかし、イエス・キリストの十字架での姿を目の当たりにした時、もはや隠しておくことができなかったのです。ヨセフはイエス様の遺体引渡しを申し出ました。それは自分がイエス様の弟子であることを公にすることでした。ヨセフとってそれはどれほど勇気のいることだったのでしょう。

本日のアリマタヤのヨセフのように、イエス様の十字架の周辺には信仰の出来事がいくつも起こされたことが記されています。先週取り上げた聖書の箇所では、ローマの百人隊長がイエス様の十字架を目の当たりにし、イエス様に対して「本当に、この人は神の子だった」(マタイ27:54)と告白したことが記されています。これもどれほどの勇気のいる行動だったろうと思います。そのように、イエス・キリストの十字架を間近にしていた者たちの中には色々な信仰の出来事が起こされました。その様子に本当に素晴らしいなと思います。しかし、一方で残念だなという思いもあります。というのは、この時、イエス様はすでに息を引き取っておられたからです。すでに全てが終わっていました。

本日の箇所で、アリマタヤのヨセフたちがイエス様を埋葬している様子を、イエス様の母たちはどんな思いで見つめていたのでしょう。「イエス様をきちんと弔ってくれてありがとう」そういう思いと共に、「もう少し早く信仰を表明してくれたら、事態は変わったかも知れない」そういう思いもあったんじゃないだろうかと思います。そして、そんなことを考えながら、私たちの歩みにも、そういうことがあるかも知れないと思いました。後から色々なことを振り返ってみる時、あの時、こうした方が良かった…。ああすることができたんじゃないか…。そんなふうに思ってしまうことがあるんじゃないかと思います。

墓の前には固く、重く、大きな石が横たわっていました。閉ざされてしまった石はもはや取り除くことができませんでした。同様に私たちの目の前に、大きな石のようなものが立ちはだかっているかも知れません。私たちが今さらどうすることもできない…。手に届かない…。そのような大きな石が私たちの前に立ちはだかっているのです。しかし、覚えていたいことがあります。墓の前の石は人々の前に立ちはだかり、人間の力では取り除くことができませんでした。しかし、三日間に墓石は取り除かれたのです。イエス様は復活されたからです。このことは私たちに希望のメッセージを語っているのだと思います。

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