「復活の朝」
マタイ28章1-10節
「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。」(28:1)
私は以前、聖書教育の表紙として、マタイ28:1の場面を描かせていただいたことがあります。「復活の朝」と題した絵で、イエス様の墓に向かおうとしている女性たちの様子を描きました。三人の女性が、暗がりの中、手にした灯火の光を頼りに歩いているのです。私はその絵を描きながら、彼女たちの心の中も、同じような状態だったのではないかと思いました。彼女たちはこの時、イエス様を失い、悲しみのどん底にいました。意気消沈し、これからどうしたらいいのかも分からないまま、先の見えない世界を歩いていたのです。そんな彼女の心の中は、真っ暗な暗闇に埋もれたような状況だったのではないでしょうか。その状況の中で、それでも、かすかなともし火を必死ににぎりしめるようにしながら、前に進もうとしていたのではないかと思うのです。しかし、覚えていたいのは、彼女たちはまだ気づいていませんでしたが、この暗やみの世界は変えられようとしていました。復活の朝がやって来ていたのです。
私たちは、しばしば、マタイ28:1のマグダラのマリア、そして、イエス様の母のマリアのような思いで歩んでいることがないでしょうか。自分たちが歩んでいる現実の状況を見る時、それが真っ暗な暗闇のように思えてならないのです。その現実を前に、不安を抱え、心塞ぎながら、それでも目の前のかすかな光を頼りに一歩一歩必死になって歩んでいる私たちがいないでしょうか。しかし、そんな思いにさせられているとするなら、本日の御言葉のメッセージを思い出していきたいと思うのです。マグダラのマリア、そして、イエス様の母のマリアも、そんなふうに暗やみを歩いていました。しかし、彼女たちの知らないところ、気づかないところで、神の御業は起こされ、復活の朝は近づいていたのです。
私はこの聖書教育の表紙の絵を、ちょうど東日本大震災の最中に描きました。絵を描きながら、自分自身をこの女性たちの姿に重ねていました。当時の状況というのは、震災と原発事故のただ中で、先が全く見えない状況でした。そんな私たちというのは、まさに目の前の暗やみに必死に格闘しながら、御言葉のともし火を頼りに一歩一歩を歩んでいるようでした。しかし、28:1の場面を読みながら、励まされたのです。彼女たちは知らなかったかも知れませんが、彼女たちの知らないところで、主の御業は起こされ、復活の朝はやって来ていたのです。今の自分たちも同じで、先が見えないけれど、神様はきっとこのような状況の中にも、御業をなしてくださる…。そのような思いを与えられ、励まされました。
「今、光は見えないが/それは雲のかなたで輝いている。やがて風が吹き、雲を払うと北から黄金の光が射し/恐るべき輝きが神を包むだろう。」(ヨブ記37:21-22)
この御言葉にあるように、私たちには光が見えない時があります。目の前の状況が暗やみにしか思えないことがあります。しかし、それでも神の真実の光は輝いているのです。