本日のローズンゲンの御言葉です。
「主に従う人には災いが重なるが/主はそのすべてから救い出し」詩編34:20
「無駄ではなかったどころか、知ってのとおり、わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められたけれども、わたしたちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中であなたがたに神の福音を語ったのでした。」1テサロニケ2:2

昨日の祈祷会は、サムエル記上6章でした。サムエル記上4-6章には、神の契約の箱にまつわる記述が記されていますが、その記述を読みながら、みなさんと一緒に様々なメッセージを聞いてきました。

そんな中、特に覚えたいこととして、三つのことを話し合いました。一つ目は「主へのおそれを学ぶ」ということでした。二つ目は「主が今も生きて働いておられる」ということでした。そして、三つ目は「主が私たちを見捨てず、愛してくださっている」ということでした。この三つのことを分かち合いながら、私たちの信仰にとって、この三つを覚えることは大事なことなんじゃないだろうかということを話し合いました。私たちはしばしば、これらのことがぼやけてしまうということがあるのだと思います。そんな中、たとえば「主をおそれる」という思いが私たちの中でぼやける時、私たちはどんな歩みに向かってしまうでしょう。私たちの中で「主をおそれる」思いがぼやける時、神様中心の信仰、神様に聞き従っていく信仰から、自分中心の信仰、神様を自分の都合のよいように考え、利用しようとしていくような、そんな信仰にすり替わってしまうことがあるんじゃないかと思います。あるいは、私たちの中で「主が今も生きて働いている」という思いがぼやけてしまっている時はどうでしょう。神様が私たちに先だって働き、私たちを導いてくださっているということを忘れ、自分で一生懸命働こうとする歩みにすり替わってしまうということがあるのではないでしょうか。一方で行く道が分からなくなって、行き詰ってしまうということがあるのだと思います。 そして、私たちが「主が私たちを愛してくださっている」ということがぼやけてしまう時、私たちは、主に心開くことができなくなっていくのだと思います。主に信頼し、委ねていくことができなくなっていくのではないでしょうか。そんな中、私たちの信仰は、どんどんおかしな方向に向かってしまうのではないかと思います。昨日の祈祷会では、そんなことを分かち合いました。

本日の箇所には、次のように記されています。
「主に従う人には災いが重なるが/主はそのすべてから救い出し」
本日の箇所には、主に従っている人が、災いを経験している様子が記されています。きっと、この人は災いに遭いながら、心激しく揺さぶれられていたのだろうと思います。何でこんな災いばかり起こるんだろう…。そんな思いにもさせられたんじゃないでしょうか。私たちがこの人のような状況に置かれたらどうでしょうか。私だったら、どんどん心ふさぎ込んで、色々なことが分からなくなったり、信じられなくなったり…。そういう思いに向かっていってしまったかも知れないと思います。 そんな自分を思いながら、改めて、そのような状況の中でも昨日の三つのメッセージを忘れないでいたいと思いました。災いが重なり、先が中々見えないような状況にあったとしても、主がそこにおられ、今も生きて働いておられるということ…。そして、その主こそ、何よりもおそるべきお方であるということ…。そして、この主は私たちを決して見捨てず、私たちが愛し、かえりみてくださる方だということ…。この三つのことを覚えていたいと思いました。実際、本日の御言葉に記されている「主に従う人」は、災いの只中で、この三つのことを経験したのではないでしょうか。それが、災いの只中にあって、主がその災いのすべてから救い出してくださったという経験だったのではないかと思います。
私たちの歩みには、色々なことがあります。災いと思ってしまうようなことが重なったり、あるいは、先の中々見えない課題に向き合わされたり、色々なことがはっきり、すっきりすればと思うのですが、そういうふうにならなかったり…。しかし、そんな中、その歩みのただ中にも、主が生きて働いておられることを覚え、その主をおそれつつ、その主に信頼し、期待して歩んでいきたいと思います。その一歩一歩の歩みの中に、主は御業をなしてくださるのだと思うのです。                                  (鈴木牧人)

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