「『死体は盗まれた』と言いなさい」

マタイ28章11-15節

 本日の箇所には、祭司長たちやファリサイ派の人々が、番兵からイエス様の復活の報告を聞いた後、番兵にお金を渡し、「弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った」(28:13)と言いふらすように指示したことが記されています。このように、祭司長たちやファリサイ派の人々は、イエス様の復活を知った後も、なおも心を頑なにし、イエス様を拒み続けました。なぜ彼らはこれほどまでにイエス様を拒み続けたのでしょうか。色々なことが言えるかも知れません。しかし、一つ思うのは、彼らの中で、最初から答えありきだったのではないかということです。私たちも、最初から自分の中でこうだと思いこんでいる凝り固まった思いがある時、目の前の色々なことに向き合っていても、終始、偏った見方しかできない…。そんなことがあるのではないでしょうか。

また、イエス様を拒み続けた祭司長たちやファリサイ派の人々の中にも、実は色々な人がいたんじゃないかと思います。中には、イエス様に対して、何かを感じ、心揺れていた人もいたのではないでしょうか。アリマタヤのヨセフは、長らく自分がイエス様であることを隠し続けていました。もしかしたら祭司長たちとファリサイ派の人々のメンバーの中にも、イエス様に心惹かれている人がいたかも知れないと思うのです。しかし、イエス様を信じる一歩は踏み出せないのです。個人的には色々なことを思いつつも、声を挙げることができないのです。そんな人もいたのではないかと思います。そして、そんな人のことを思い浮かべながら、そういうことも自分の中にあるかも知れないと思います。本当は色々なことを思っている…。これは違うんじゃないかとか、間違っているんじゃないか、これが正しいんじゃないかということを思っているのです。でも、そのことを声に出せないのです。一歩が踏み出せないのです。そういうことって、私たちにもあるのではないかと思うのです。

そして、さらに思わされることがあります。彼らはイエス様を否定するにあたって色々な理由があったのかも知れません。でも、その一番根っこにあったのは、何よりも恐れだったのではないかと思うのです。もしも自分たちがイエス様のことを認めてしまったらどうなるのか…。そうすれば、自分たちがこれまで語ってきたことも、してきたことも、それが間違いだと認めなければならなくなってしまいます。自分たちがこれまで積み上げてきたこと、培ってきたことを全て無駄になってしまいます。そんなこと受けいれられないのです。認めることができないのです。そんな彼らの姿があったのではないでしょうか。

そんなふうにイエス様を最後まで受け入れなかった祭司長たちとファリサイ派の人々の姿を見ながら、色々なことを思いました。自分の中でこうだというものがあって、そこでしか物事を見ていない…。本当は個人的に色々な思いをもっているのだけど、そのことを声に出せない…。一歩踏み出せない…。イエス様を信じ、受け入れることの恐れの中で、受け入れることができない…。そんな祭司長たちとファリサイ派の人々の姿の姿を思いました。そして、そんな姿それぞれに、時々の私たち自身の姿が重なってくるように思うのです。

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