「神さまのビジョン」
イザヤ11:1-10
この箇所でまず思わされるのは、イザヤは絵筆ではなく、語る言葉をもって数々のビジョンを描いているということです。平和の世界のビジョンが人々に共有されたのです。
1~5節では、イザヤの言葉でありつつ、イエスさまが実際行った公平な裁きが描写されているように思わされます。それは、神さまの思いによって裁きが行われる世界です(2~3節)。弱くされている人や、貧しい人が立ち上がれる世界です(4節)。3節の冒頭は口語約聖書では「主を恐れることを楽しみとする」となっています。最善をなしてくださると約束される、人間を超えた神さまがおられるからこそ、喜びをもって神さまを畏れるのだと思います。
6~9節では対立を超えた、共に生かされる動物世界が描かれています。私たちが知る現実とは程遠い世界のように思えます。現実世界を覆す平和な世界をイザヤは語ったのです。
ある牧師はこの動物たちのことでこのように語っています。「英語では、おおかみと小羊が「the wolf, the sheep」と訳されています。和訳すれば、『「その」おおかみ、と「その」小羊が共に宿る』、となります。もしかしたら、「その」おおかみは、「その」小羊の親の命を奪ったかもしれない。しかしここで描かれているのは、和解の出来事であり、平和の出来事なのです」。
私たちの教会では11月26日に佐々木和之先生をお招きし、オープンチャーチを開く予定でいます。佐々木先生は、虐殺の歴史を持つルワンダで和解のために働いておられる先生です。以前その働きを取り上げたドキュメンタリーを教会で観ました。同じ村に住む幼なじみの被害者の女性と、加害者の男性の和解への道のりが映されていました。実現は不可能であるようにも思えてしまう、和解をもたらそうとする働きのドキュメンタリーでした。
イザヤの語る和解のビジョンも、現実をはるかに超えたものであるように思います。しかし佐々木先生の働きから思わされるのは、ビジョンがあって働いているということです。イエスさまが示された、神さまのビジョンです。
9節では、イザヤが描く世界に必要とされるのは「主を知る知識」であると述べられています。私たちが率先してイエスさまが示された世界を知ろうとするときに、争いをも乗り越え、平和の世界に生きることができるのだとここで断言されています。
この箇所を読んでいくと、イザヤのビジョンは全てイエスさまが示したビジョンであることに気づかされます。また、イエスさまの宣教の始まりの言葉を思い出します。「神の国は近づいた」がその言葉です。人が神さまの国に近づくのではなく、神さまの国が人の現実に近づいてくださるということです。まさしくイエスさまご自身が私たちの現実に入り込んできたのです。
今私たちの周りでは様々なビジョンが語られています。だからこそ、問われているのだと思わされます。私たちはどのビジョンを思い描いて歩んでいくのか。私たちができることは、イエスさまが示された神さまのビジョンを見て、そこから出発することです。神さまが私たちの現実に入り込んでくださるのです。
西本詩生神学生