「イエスに会い、ひれ伏した」

マタイ28章16-20節

「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。」(28:16-17)

この御言葉を読みながら、「イエスに会い」という言葉が心に留まりました。そして、ずいぶん前に聞いたこんなやり取りを思い出しました。ある先生がこんなことをおっしゃっていました。「出会いというのは、それがどんなささいな出会いであっとしても、本当の出会いが起こされるなら、その出会いは私たちを変える。それが出会いなんだよ。」すると、一人の人がこんな質問をしました。「出会ったって、何も変わらないこともあるんじゃないですか。」先生は、その質問にこのように答えていました。「もし、出会っても何も変わらないとするなら、それはその人が本当は出会っていないんじゃないですか。」心に残る言葉です。私たちは日々の歩みの中で、様々な人や出来事に出会っているのだと思います。しかし、それらの出会いは私たちにとってどんな出会いでしょうか。

本日の箇所には、まさにそのようなイエス様の復活に出会った弟子たちの様子が記されています。本日の箇所には「イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」(28:17)と記されています。私は以前、この箇所を読んで、「疑う者もいた」という言葉に、弟子の中にも不信仰な人がいたんだなと思って読んでいました。しかし、今回、改めて読みながら違うメッセージも聞こえてきました。弟子たちの中にはすぐに信じられず、復活を受け止められない者たちもいました。しかし、そんな人もここではイエス様の弟子として紹介されているのです。そんな彼らさえも、弟子としてみなされている…。そのことに、慰めと励ましのメッセージが聞こえてきたのです。そして、本日の箇所を読みながら、自分自身のことに引き寄せて考えてみました。私たちも時に、せっかくイエス様の取り扱いを経験したり、恵みに出会ったりしても、それをすぐには受け止めきれなかったりすることはないでしょうか。どれだけ、素晴らしいイエス様の恵みに触れても、心頑なになっていたり、斜めから見たりしてしまっていることもあるのではないかと思うのです。でも、そんな私たちでさえ、イエス様は忍耐強く関わってくださっている…。そんなことがあるのだと思います。ここで疑っている人々を弟子として紹介している様子に、そんなイエス様の慰めに満ちた温かな眼差しを思いました。そして、さらに思ったのは、弟子たちが復活のイエス様に出会って、ひれ伏した人もいたり、最初は受け止められず、疑う者もいたかも知れない…。でも、彼らは彼らなりにそれぞれ復活のイエス様と出会ったんだろうなということでした。疑う者もいたかも知れません。しかし、疑う者は疑う者なりにイエス様のことをどう受け止めればいいのか、考え、悩んだのではないでしょうか。そして、そのことが大切なのではないかと思いました。私たちは復活のイエス様のことをすぐに受け止められないことがあるかも知れません。でも、分からないことを分からないとしながらも、ちゃんと悩んで、立ち止まって考える…。そうすることは大切なのではないかと思います。

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