「シケムで起こったこと」

創世記34章1-7節

本日の箇所は、カナンの地に住み始めたヤコブたち一家に起こった悲しい事件です。ある時、ヤコブの娘ディナがシケムの町に出かけたところ、その土地の長の息子がディアを辱めたというのです。この事件は、やがて、ヤコブの息子たちによる報復行為となり、ヤコブたちとシケムの人たちとの関係はどうにもならない状況にまでいってしまいます。私たちはこのシケムでの出来事からどんなことを読み取ることができるでしょうか。

私は神学生の頃、この聖書の箇所からメッセージをしたことがあります。その時の原稿にこんなことが書かれていました。「ディナはたわいもない『無邪気』な好奇心から、ある日、土地の娘たちと遊ぼうと思い、出かけていった。しかし、彼女のこの自らを自覚しない、軽はずみな行動が結果、とんでもない事件を引きおこす。この事件に関して、ディナは被害者であることに間違いない。しかし、彼女の安易な行動にも、多少の非があったのではないか。」この原稿は確か、何かの注解書を読んで書いたものだったと思います。ですから、このような解釈をしているのは、私だけではありません。ディナはシケムに辱めを受けたのですが、ディナにも落ち度があったという解釈です。しかし、昨年、家庭集会でこの箇所を読む機会がありました。その中で、改めてこの箇所を読みながら、心に迫ってきたのは、「もしディナがこの説教原稿を読んだら、どう思っただろうか」ということでした。ディナはあくまで被害者でした。そんな中、「ディナだって悪いよ」と非難されたら、いたたまれなくなったのではないかと思うのです。本当の問題はどこにあるのか、誰なのか、分からなくなってしまうのではないでしょうか。そのような気づきから、この箇所を読み直したところ、この記述から問われているメッセージがたくさんあるように思いました。

「今日の私たちにとってディナとは誰だろう。」家庭集会でそんな話になりました。その時、「沖縄がそうなんじゃないか」と言う人がいました。「原発事故後の福島はどうだろう」という声もありました。被害を受けている当事者であるはずなのに、その声はどこか置き去りにされ、周りから色々なことを言われてしまう…。確かに本日のディナと同じような状況があるかも知れないと思いました。そして、それは私たちの周りにしばしばある状況なのではないかと思います。そんなことを考えさせられながら、心に迫ってきたのが、「それはしてはならないことであった。」(34:7)という御言葉でした。本日の箇所には色々な人がいて、それぞれの立場や言い分がありました。しかし、御言葉の視点は一貫して、シケムのしたことは「してはならないことであった」と語るのです。この御言葉は、本日の箇所の中で、ディナにとって「唯一の救いの言葉」だったんじゃないかと思います。もし、この聖書のメッセージを、ヤコブやレビやシメオンがきちんと耳を傾けることができたら、彼らの態度や行動は変わったかも知れないと思います。そして、それは私たちもそうかも知れません。私たちの身の回りの様々なことを、御言葉から聞き始めていく時、私たちの立場や言い分を越えて大切にしなければならない事柄が何か、見えてくるということがあるのではないかと思うのです。

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