本日のローズンゲンの御言葉です。
主は天上の宮から山々に水を注ぎ/御業の実りをもって地を満たされる。詩編104:13
神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。使徒14:17
以前、ある方がこんなことをおっしゃっていました。「時々に、周りの人が驚くような奇蹟の体験を話をする人がいる。『自分はこんな体験をした。これは神様がなさった奇蹟としか思えない。』
そんな色々な話をする。それを聞いて、本当にすごいなと思う。でも同時に、自分はそんな体験をしたことがないことが残念にも思う。そんな中、自分は不信仰だから、あるいは、神様は私を愛していないから、そんな体験をしたことがないんだろうかと思ってしまう。」
その人はそんなふうに話していました。
すると、その人に対して、一人の牧師がこんなふうに答えていました。
「確かに、神様は私たちの驚くような奇蹟をなさることができる方です。
そんな体験を通して、神様に出会い、捕らえられていくということは素晴らしいことだと思います。しかし、そうではなく、普段と変わらない平凡に思える日常の中で、神様が生きて働いておられることを感じ、今、この場所に自分がいるのは、神様の恵みだということをひしひしと受け止めながら、その神様の恵みを噛み締めることができることなんじゃないでしょうか。
私は、そのような出会いの方が大事なんだと思いますし、そのような出来事の中にきちんと神様を見ていくことのできる人の方が、考え方によっては、もっと信仰の深い部分で神様に出会っているんじゃないかと思いますよ。」
その牧師の言葉を聞いた時、その人は安心した表情で「そうですね」と話していました。
本日の箇所には、次のように記されています。
「神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。」この御言葉を読みながら「神様は御自分のことを証ししておられる」という言葉が心に留まりました。そして、思い浮かべたのが、先ほどの牧師の言葉でした。
ここで神様の証として挙げられているのは、天からの雨を降らせて実りの季節を与えていること、そして、食物が施されていることです。いわば、日常の何気ない出来事なのだと思います。
そんな出来事を通して、神様は御自身のこと、御自分が今も生きて働いておられるということを証しておられるというのです。何より、そのような日常の何気ない出来事の中に、生きた神様の証を見出せる私でありたいなと思いました。 (鈴木牧人)