「あなたがたの召しをきちんと見分けなさい」
Ⅰコリント1:26-31
本日の箇所には、「あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい」(1:26)と書かれています。この言葉は、「あなたがたの召しをきちんと見分けなさい」という言い方がより正確だと思います。「召しをきちんと見分ける」とはどういうことでしょう。私たちが、どのような時に、どのような形で召されたのか、そのことをしっかり踏まえて、私たちにとって神様の召しとはどういうものか、きちんと考え、わきまえ知るということが、「あなたがたの召しをきちんと見分ける」ということだと思います。
そんなことを考えながら、私が思い出したのは、学生時代のことでした。大学受験を控えていた頃、将来のことを考えながら、悶々としていたことがありました。その時の私は、人生に行き詰まり、自信が持てず、「自分なんかいることに意味があるんだろうか」と思うこともありました。その時、ある本の言葉に出会いました。「あなたにとって、イエス様は必要だと思いますか。」その本の問いかけに、私は本を読みながらすぐに「私には必要だ」と思いました。すると、その後に、こんなことが書かれていました。「それでは、イエス様にとってあなたは必要だと思いますか。」私にとってイエス様は必要だということはすぐにそうだと思えたのですが、イエス様にとって私は必要だということに関しては、考えたこともありませんでしたし、すぐにそうだと言い切ることもできませんでした。しかし、その本にはこんなふうに書かれていました。「あなたにとってイエス様が必要であると同じように、イエス様もあなたを必要としています。イエス様はあなたをあえて必要としているんです。たとえあなたが欠点だらけ、足りないところだらけだったとしても、それでもあなたを必要としています。それがイエス様の恵みなのです。」その言葉が私の心に響きました。その時の私にとって、何よりの励ましの言葉でした。さらにこんなことも書かれていました。「もしあなたが今、自分のすべき働きが分からなかったとしても、心配したり、焦ったりしなくていい。何もせず、備えるという時だってあるのです。イエス様に信頼して、一つ一つ御言葉に聞こうとしていく時、イエス様は必ず時が来た時にあなたを用いてくださいます。だから、今すぐどうこうしなければいけないと焦らなくてもいいのです。」
私が、どのような時に、どのような形で、召されたのかということを考える時、思い出すのは、その時のことです。これからの将来に不安を抱えながら、自分に自信が持てなくて、悶々としながら悩みながら、一人部屋で過ごしていた情景、そして、そこで出会った言葉や与えられた信仰が、私にとっての原点です。そんな中でつくづく思うのは、自分には何も誇るものなんてなく、欠点だらけ、足りないところだらけの私を、そんなこと関係なく、恵みによって召し出してくださっている、用いようとしてくださっているということです。それが私にとっての信仰の原点、召しの原点であり、その思いは今も変わっていません。今も心ゆれてしまうことがありますが、私がいつも立ち戻らされるのは、このイエス様を見上げながら、イエス様に信頼し、今できる一つ一つ御言葉に聞くことです。