「優れた言葉や知恵ではなく」

Ⅰコリント2:1-5

本日の箇所で、パウロは「兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした」(2:1)と語りました。この「優れた言葉」とは、ギリシア語で「ヒュペロケー」という言葉が使われています。これは、「権威でもって上に立つ」という意味があります。周りから一目置かれるような、「すごいなぁ」とか「立派だなぁ」と思われるような言葉が、「優れた言葉」と言えるのではないでしょうか。私たちの世界というのは、しばしばそんな「優れた言葉」を求めているのだと思います。周りから見て、見栄えのよい言葉、立派に見える言葉、そんな「優れた言葉」を、社会の様々な場面で求められていることがあるのだと思います。時に、本当の自分がどうとか、そういうことを置いといたところで、周りの人にとって、よく思われるための言葉、そんな「優れた言葉」を求めていたり、私たち自身もまた、そのような求めに懸命に応えようとしていることがあるのではないでしょうか。そんな世界にあって、私たちは戸惑うことがあるかも知れません。ついていけないと思うことがあるかも知れません。しかし、最初はそんなふうに戸惑いながらも、いつの間にか、そういう世界にどっぷり浸かっていることもあるかも知れないと思うのです。本当の自分がいつの間にかどこかに行って、周りの人にとって、よく思われるための立派な「優れた言葉」で、私たち自身、身を固めようとしている…。いつの間にか、当たり前のように、そういう言葉で身を固めてしまっていることがあるのではないでしょうか。

そして、何というのでしょう。私たちがそういう言葉で身を固めようとしていると、今度は逆に「優れていない言葉」を語れなくなってしまうこともあるのではないかと思います。「優れていない言葉」が心に湧き上がってきたとしても、口に出すことを躊躇したり、湧き上がってくる思いに蓋をしてしまったり、素直に向き合えない…。そんな私たちがいるのではないでしょうか。「優れていない言葉」って、どんな言葉でしょう。色々なことが言えるかも知れません。ただ単純に考えれば、「優れた言葉」と反対の言葉なのだと思うのです。たとえば、「分かりません」という言葉はどうでしょうか。「私は弱いんです」と打ち明ける言葉だったり、「私は不安です。怖いです」という言葉はどうでしょう。私たちが「優れた言葉」で自分自身を繕おうとしている時、これらの言葉というのが、中々言えないということはないでしょうか。口に出すことを恥だと思ったり、湧き上がってくる思いに蓋をしたりすることがあるのではないかと思います。そして、そんな「優れていない言葉」を考えながら、私にとって、最も言いづらい「優れていない言葉」とは何だろうかと考えました。色々思いながら、一番心に迫ってきた言葉は、「ごめんなさい」という言葉でした。そして、私がそんなふうに、「優れた言葉」に縛られて、「優れていない言葉」に向き合えない時、福音のメッセージや十字架のメッセージが遠いものになってしまうことがあるのではないかと思うのです。

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