「もし理解していたら」
Ⅰコリント2:6-9
先日、埼玉の連盟事務所で行われた平和宣言の全国集会に出席してきました。今回、講師としてお話しくださったのは、在日大韓基督教会牧師のキム・ソンジャ先生でした。キム先生は、お話の中で「目の前の人たちの心のひだに何が始まり、何が起こったのかを理解しなければ、物事の本質を本当の意味で捉えられない」とおっしゃっていました。お話を聞きながら、震災被災地でも見失っていけないことの一つに、こういうことがあるんじゃないかと思いました。震災被災地では、みなさん、それぞれに心のひだに色々な思いを抱えているのではないかと思います。悲しみや怒り、痛みや傷など、たくさんの積み重ねられてきた思いがあるのだと思います。そんな中、目の前の相手の心のひだにあるものを理解しようとしながら、共に歩んでいくことの大切さを思うのです。しかし、実際には、中々そういうことができない現状もあったりします。たとえば、福岡に住んでいると、中々、東北の様子が分からず、正直、東北の皆さんの思いが分からなくなってきているのではないかと思います。そんなふうに被災地と他の地域の間で、相手の心にあるものを理解できなくなっている状況があるのではないでしょうか。ただそれというのは、震災被災地の中でもそうかも知れません。ともすると、自分のことで精いっぱいになって、互いに目には見えない、壁や溝ができてしまうことがあるんじゃないかと思うのです。そんな中、向き合わなければならない問題があるのに、足並みが揃わなかったり、向かっている方向がバラバラになっていたり、問題の本質が分からなくなって、どんどんおかしな方向に向かっていったり…。そんなことがあります。被災地の復興の様子、原発の事故対応などを思う時、そんなことを思います。
「この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。」(2:8)
この御言葉の「誰一人~理解しませんでした。もし理解していたら」という言葉が心に迫ってきました。現在の私たちはどうでしょう。神の知恵を、神の国の真理を、福音のメッセージを、きちんと理解しているでしょうか。肝心なことが未だに分からず、イエス・キリストを十字架につけてしまうような、愚かなこと、取り返しのつかないことを、今も犯していないでしょうか。たとえば被災地の様々な働きを振り返って、私自身の失敗を振り返る時、「ああ、自分は物事の本質をまるで理解できていなかったな。もしあの時、きちんと相手のことを思いやって、配慮できていたら、こんなことにはならなかったんじゃないかな」と反省させられることがたくさんあります。そんなふうに被災地の復興に関する様々な働きを振り返ってみる時、私自身の課題としてこの御言葉が迫ってきます。しかし、何より、この「もし理解していたら」という御言葉から心に迫ってくるのは、原発の問題です。私たちはだれ一人、このことを理解していなかった…。もし理解していたら、こんなことにはならなかった…。原発事故では、まさにそのようなことが突き付けられたのではないかと思うのです。