「わたしの食べ物」
Ⅰコリント3:1-9
本日の箇所で、パウロはコリント教会の人たちに対して、「わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです」(3:2)と語りました。コリント教会の人たちは、このパウロの言葉をどんなふうに聞いたでしょうか。正直、心外と言いますか、自分たちがそんな状態だとは思いもしなかったのではないかと思います。パウロが語った『コリント教会の人たちが未だきちんと食べることができていない固い食べ物』とは一体何でしょうか。色々なことが考えながら、「固い食べ物」と訳された言葉について、聖書の原文のギリシア語で調べてみました。すると、ブローマという言葉が使われていました。この言葉は、聖書の中で普通に「食べ物」という意味で使われている言葉です。しかし、一か所だけ、特別な形で使われている箇所がありました。
「イエスは言われた。『わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。』」(ヨハネ4:34)
ここでイエス様は、「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げること」なんだと言われたのです。この御言葉が深く心に留まりました。もし、コリント教会の人たちが、イエス様から「これが食べ物なんだ」と言われたとしたら、どう思ったでしょうか。それを食べ物だと思えたでしょうか。「そんなのが食べ物なの?」「美味しいの?」「それで栄養になるの?」と思ったりしたのではないでしょうか。コリント教会の人たちだけではなく、多くの人がそう思うのではないかと思います。神様の御心を行なうことが大切だと分かっていますし、そういうことをしなければいけないと義務感のようには感じていても、それが私たちにとっての霊的な食べ物だよと言われるなら、「それが食べ物なの?」と思ってしまうのではないかと思うのです。ただし、霊の人…。信仰によって生きる人にとっては、それが食べ物となるのです。神様の御心を行なうこと…。その業を成し遂げること…。それが心からの喜びとなり、エネルギーの源、元気の源になるのです。
ある牧師が以前、こんなことをおっしゃっていました。
「自分たちの教会は、大変な時、様々な教会に助けられてきた。他県の様々な教会がわざわざ自費で自分たちの教会に来て、教会のためのチラシ配りだったり、掃除だったり、たくさんの奉仕をしてくださった。そして、散々働いて帰っていく際には、嬉しそうに『ありがとうございました』と言って帰っていかれる。こちらが散々してもらって、本当なら、こちらが『ありがとう』という話なのだと思う。しかし、奉仕をしてくださった人たちの側が『ありがとう』と言う。普通だったら、不思議に思えてならない話ではないだろうか。でも、教会ってそういうところなんだよね。」
本日の箇所を読みながら、その牧師の言葉を思い出しました。そんなふうに、わざわざ遠方から来て様々な奉仕を担っていかれた方々というのは、本日の箇所の「固い食べ物」を食べておられたのではないかと思うのです。教会って、そういうところなんだと思いました。