本日のローズンゲンの御言葉です。

彼らは木に向かって、「わたしの父」と言い/石に向かって、「わたしを産んだ母」と言う。わたしに顔を向けず、かえって背を向け/しかも、災難に遭えば/「立ち上がって/わたしたちをお救いください」と言う。エレミヤ2:27
あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。ローマ2:4
本日の箇所には、次のように記されています。
「彼らは木に向かって、『わたしの父』と言い/石に向かって、『わたしを産んだ母』と言う。わたしに顔を向けず、かえって背を向け/しかも、災難に遭えば/『立ち上がって/わたしたちをお救いください』と言う。」
この言葉は、当時の人々の振る舞いに対して、預言者エレミヤが訴えた言葉です。当時の人々は、神様のことを軽んじ、神様ではないものを神様であるかのように崇めていきました。木や石で造られた偶像に向かって、「わたしの父」「わたしを産んだ母」と言ったのです。その一方で、神様に対して、背を向けていきました。しかし、いざ災難に遭うと、すぐさま「神様助けてください。神様救ってください。」と訴えていたのでした。
本日の箇所を読みながら、心に湧き上がってきたのは、「困った時の神頼み」という言葉でした。
困った時だけ都合よく神様を求めようとするのは、どの時代も変わらないんだなと思いました。
私たちもそうなってしまうことがあるかも知れません。
そんなことを思いながら、もう一つ思い出したことがありました。
それはある先生がおっしゃっていた、こんな言葉でした。
「よく『困った時の神頼み』という言葉がある。余りいい言葉として使われないけれど、実際の私たちの歩みを顧みる時、私たちというのは、困難を経験し、困った時に初めて、心から神様を真剣に求めるということがあるんじゃないかな。誰しもそうなんじゃないかと思う。だから、『困った時の神頼み』ということ、そのものが悪いとは思わない。むしろ、困った時だけしか神様を求めないことが問題なんだと思うよ。人生の困難に向き合わされ、そこで初めて、神様に出遭う経験をする…。そのことをきっかけにして、神様を真剣に求めるようになれば、それはかけがえのない経験なんだと思う。そんなふうになっていくことを、『困った時の神頼み』ではなく、「困難は信仰の母」という言い方をするんだ。」
印象的な言葉でした。私たちは中々普段何事もない時には、神様のことを真剣に考えるということがないかも知れません。
そんな中、人生の危機を通し、自分の人生を真剣に問い、信仰に向き合わされ、神様を求めるようになっていくということがあるのだと思います。それでいいのだと思います。
大切なことは、そのようにして神様に出遭った私たちが、そこからどう生きるかということです。
その出遭いを忘れず、大切にしていくなら、その出遭いは私たちの人生を変えるかけがえのない経験となるのだと思います。
(鈴木牧人)

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